2002年3月20日水曜日

〔再録〕荷風とお岩さん


「荷風塾」学校通信
School News
2002.3.20 学校通信 No4
荷風とお岩さん
    余丁町散人「荷風塾」学校通信の第4号です。今回は余丁町からちょっと離れて、荷風と於岩稲荷の関係について。お岩さんといえば四谷左門町の田宮神社。余丁町から目と鼻の先です。当然荷風もここにお参りしたことがあるはずと睨んでいたのですが、違うんですね。別のところのお岩さんだったんです。これが今日のお話。

散人は年甲斐もなくお化けのお話が好きなんですが、荷風はさすがは合理主義者、あまりその類のお話は書いていません。でもその荷風にも「お化け小説」に近いものもがあるのです。それが昭和19年に書かれた小説「来訪者」。お話は、老齢期に達した作家(荷風)が偶然文学を語り合える二人の若い友人に巡り会う。しかし、結局彼らに裏切られ、失望落胆するというものですが、主人公の老作家(荷風)が書いた『怪夢録』というお化け話の原稿が重要な小道具として使われているし、また悪役になる若者は(その罰として)お岩稲荷のそばの越前堀の隠れ家で人間離れした淫女に苦しめられるという、荷風にしては珍しく「お化け小説」の色彩が強いものです。とても面白い。

ところがこの小説の評判は決してよくありません。為にするために書かれた陰険な個人攻撃の文書と見なされることが多いようです。確かに、この「悪い若者」のモデルとなった平井程一(アーサー・マッケンの翻訳者として知られている人物)はかなり迷惑を被ったようです。でも実際の平井程一は博覧強記の立派な人物であり、いまでも彼を師と仰ぐ人々は少なからず存在するようで、それらの人たちによって、平井程一先生を攻撃した荷風はとんでもない「陰険爺」だと書かれる、というのが実態のようです。




紀田順一郎『略して記さず』では
 たとえば平井程一に私淑した紀田順一郎は『略して記さず』と題した文章の中で次のように書いています。

<引用はじめ>
「荷風は『おかめ笹』という滑稽小説があるように、本来ユーモア感覚に富んだ人だが、この作品はジョークにもならなかった。終わりに近い部分で荷風が「京橋区湊町は越前堀のお岩稲荷の側」にあるという二人の隠れ家を探索に行く場面があるが、お岩稲荷は昔から四谷左門町にあるものと相場が決まっている。こうした初歩的なミスが生じたのは、是が非でも二人の人物を淫靡かつ矮小な世界(ここでは怪談)に押しこめることで頭がいっぱいだったからであろう。お常をお岩に見立て、真夜中になると人が変わって白井を追い回すという趣向により、荷風は単純な復讐心を満たしているのである。(中略)要するに、あらゆる意味で荷風の執拗な復讐心の現れた作品というしかない」
<引用終わり>

痛烈ですね。散人もお岩稲荷は四谷の左門町にだけあるものと思っていましたので、越前堀というのはお話を面白くするために荷風が設定したフィクションだろうと考えていました。しかし、昨年ネットニュース fj.books で久留さんという方から、当時お岩稲荷は越前堀に移転していたので、この点については荷風が正しく「初歩的なミス」をしたのは紀田順一郎の方だと教えて貰いました。いやあ、嬉しかったですねえ。さすがにネットの世界は広大です。いろんな物知りがいる。

早速、四谷の田宮神社(お岩稲荷)に赴き縁起を調べますに、その通りだと判りました。お岩稲荷の始まりは四谷左門町で寛永13年(1636年)に遡りますが、文政8年(1825年)の東海道四谷怪談の上演以降、歌舞伎役者を中心に参拝客が増え「於岩稲荷」として有名になります。しかし明治12年の火事で社殿が焼失し四谷から越前堀に移ったのでした。それが第二次世界大戦でまた焼失し、今度は四谷左門町、新川2丁目(越前堀)二カ所に再建したということのようです。荷風が「来訪者」を書いたのは昭和19年ですから、その時は於岩稲荷はまさしく越前堀にあったのでした。

散人はこの度「来訪者」をもう一度読んでみましたが、「筆誅の書」という印象は受けませんでした。東京下町の風景の描写もしっとりしていて、さすがは荷風とうならせますし、老作家の青春を惜しむ気持ちが、去っていった二人の若い友人への暖かい感情と重なって、むしろ荷風は二人を懐かしんでいるのではないかとさえ感じたくらいです。平井呈一氏と実際に会って話を聞いた秋庭太郎によれば平井程一本人は荷風をいっさい恨んではいなかったそうで、なんだか肯ける気がいたします。
荷風と越前堀のお岩さん
  『日乗』 S10.10.29
最近また『断腸亭日乗』を読んでいて、荷風が実際に越前堀の於岩稲荷に参拝していたことも判りました。昭和十年十月二十九日の記述です。

「晴れて好き日なり。・・・風静かなれば歩みて新大橋に至り船に乗りて永代橋を過ぎ越前堀の岸に上る。・・・河岸通りに聳える三菱倉庫(注:あとで荷風は住友倉庫と訂正している)の裏手に出でお岩稲荷に賽す。震災後この淫祠もいかがなりやと思いしに堂宇は立派に新築せられ参詣の人絶えず。・・・・大正のはじめ頃この淫祠の門前筋向かいの貸家にたしか荒川とやらいいし淫売宿あり。若き後家人妻など多きときは七八人も集いいたることもありき。今日もこのあたりの貸家には囲い者らしきもの多く住めるがごとし」

さすがは荷風です。十年近く前に散歩の途中に観察した場景をしっかり小説に再現しているのです。荷風の実地調査の綿密さにはいつもながら驚嘆いたします。

ちなみに散人の実地調査の結果では、東京には於岩稲荷と称するものが全部で四つあるようです。二つの田宮神社については上に述べた通りです。三つ目は四谷左門町の田宮神社の向かいに陽運寺というお寺で、その境内に「於岩稲荷」が祀られています。田宮神社が越前堀に移転していた間、留守を守ってきたのでしょう。更にもう一つ(四つ目)は四谷三丁目のスーパー丸正の入り口にあるセメントで作られた「於岩供養水かけ観音」です。買い物客が出入りの度に水をかけてお参りをしているので、ここのお岩さんが四つの中で一番「参拝客」で賑わっています。

左に掲載している写真は越前堀のお岩さんのものです。四つ全部のお岩さんの写真はアルバムに作っておきましたので下のリンクからご覧ください。

<追記 2002.8.15>
上記に引用した紀田順一郎氏の文章は荒俣宏編著『大都会隠居術』(1996)における引用を引いたもの(孫引き)です。しかし今般『紀田順一郎著作集第7巻』(1998)を入手、収録されている「日記の虚実 略して記さず」および「永井荷風ーその反抗と復讐」を調べましたが、同じ文章とはなっておらず「初歩的なミス」のくだりは入っておりません。荒俣宏氏は多分最初に出された『日記の虚実』(新潮選書1988)から引かれたものと推察しますが、その後紀田順一郎氏はその部分を書き改めておられます。

四つのお岩さん

2002年3月17日日曜日

「視点コラム」の再開(あわせて「猫に小判」考)

2002.3.17


退職して一年になる。ちょっと昔が懐かしい感じもしないではない。一番残
念なことは在職当時に毎月書いていた「視点」というコラムが書けなくなっ
たことだろう。今般、散人のホームページの中に過去の視点コラムを収録す
る作業を行ったが、昔の自分の文章を読み返して無性に懐かしくなった。や
はり無い知恵を絞って、考え考えして書いたものだけに、愛着がある。さら
に歴史記録という面もあり、今読み直してもそれなりに興味深かった。とい
うことで、基本的には自分のためにではあるが、考えること書くことを続け
てみようと考えた。あと十年生きれば、その時にもう一度読み直して見よう。
その時、昔の自分の馬鹿さ加減を嗤えるぐらいに、知的に成長を続けること
が出来ればいいなと思う。

再開第一回目のタイトルに、「猫に小判」と書いた。隠居の身であるから少
々ふざけても怒られることはない。散人は猫が好きで人生のほとんどを猫と
生活したためか、猫にかなり影響を受けた。前生は猫ではなかったかと思う
ときもあるくらいだ。よって猫の考えていることは相当理解できるつもりだ
が、それでもよく分からないときがある。いわんや普通の人には理解できな
い。だから猫はなにも考えていない動物だと思われ、ハウツー本には「ネコ
にも出来る・・・」とかのタイトルが付く。たいへん猫に対して失礼だ。
最たるものは「猫に小判」ということわざだろう。ものの価値が分からない
人には値打ちのあるものを与えても無駄との意味に使われる。ネコは馬鹿だ
ねえ、「かつお節」をやれば喜ぶが、もっと価値がある小判は値打ちが分か
らないのでそっぽを向く、というのだ。

でも本当にそうだろうか。小判は確かにお金としての価値があるのだけど、
使用価値がある財サービスと交換できることではじめて値打ちがあるわけで、
小判も「かつお節」と交換してはじめてメリットが出てくるということが大
切。でも時として人間はそれを忘れ、小判自体を保有したいと並外れた情熱
を注ぐことがある。でもみんながそれをやり出すと不況になる。猫の方が頭
がいい。
現在の日本の不況でも同じ現象が見られる。不況がデフレを加速させ、貨幣
を保有しているだけで貨幣の実質価値が増加する時代だ。そういう状況では
誰もお金を使おうとは思わない。人々は投資したり消費したりして自分の保
有する貨幣を現実の価値「かつお節」に代えることに消極的になり貨幣のま
まで保有しようとする。それが更に不況を悪化させる。

こういう状況に対する処方箋をいち早く提起したのがケインズであった。ケ
インズは『一般理論』において「人々がみんな月をほしがり、月が一つしか
ない場合、人々は失業する。そういう場合は月の代わりにまるいチーズを大
量生産して人々に(月だといって)与えるしかない。中央銀行が文句を言え
ば国有化するのだ」と書いた。もちろんケインズの言う「月」とはお金のこ
と「まるいチーズ」とは増刷された紙幣のことである。ケインズが「流動性
の罠」と呼んだ状況に置いては、今も昔もインフレ政策でしか不況からの脱
出は出来ないのである。数十年前から指摘されていることで、それ程難しい
理屈ではない。

日銀の量的緩和の是非をめぐる議論がこの二三年続いていたが、ようやく日
銀は昨年の春より金融緩和の方向に舵を切った。量的緩和をはじめているの
である。一大決断であった。いまだに「インフレターゲット論の是非」につ
いて議論をする人を見かけるが、いささか過去の議論である。いまや大勢は
決しているのだ。実体経済に影響を及ぼすまでには時間がかかろうが、日本
はゆっくりと量的緩和による不況脱出の方向に進みつつある。これを間違え
てはならない。その認識のもとに、量的緩和に伴い不可避的に起こるインフ
レと円安への対応を、今から準備しておく時期に来ているのである。

最後に近況報告。隠居生活の自由気ままさはとてもいいものです。ときには
気の毒がられることもありますが、そういう人にはこのありがたみは「猫に
小判」なのでしょうね。

余丁町散人(橋本尚幸)

2002年3月9日土曜日

〔再録〕荷風はどこで幸徳秋水の囚人馬車を目撃したのか?


「荷風塾」学校通信
School News
2002.03.09学校通信  No.3
荷風はどこで秋水を見たのか
     余丁町散人「荷風塾」学校通信 No.03 です。引き続き余丁町関連の話題で、今回のテーマは「荷風はどこで幸徳秋水を乗せた囚人馬車を目撃したか」と言うこと。

前回も触れましたが、当時日本きってのハイカラ男だった荷風が欧米から帰国後、急に文明開化に背を向けて江戸指向を強めていくきっかけに幸徳秋水事件があります。幸徳秋水とは明治43年年6月いわゆる大逆事件に連座して検挙され、天皇暗殺計画の主謀者として明治44年1月死刑を宣告され、24日処刑された明治の社会主義者ですが、荷風が住んでいた余丁町のすぐ裏にある市谷監獄に収容されていたのです。荷風の随筆「花火」の中に荷風が秋水を目撃する有名なくだりがあります。次の文章です。

「明治四十四年慶應義塾大学に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五六台も引き続いて日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うにいわれない厭な心持ちのしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者とともに何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に耐えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」

これは荷風の転向のきっかけを説明するものとしてよく引用される有名なくだりです。これに対して、これは荷風のポーズであるとかいろいろ議論もあるのですが、散人の興味は、あくまでも「荷風は秋水をどこで見たか」という点でした。


囚人馬車と荷風の通勤経路
  市電路線図と坂道がポイントこれについては、いままで何となく曙橋の住吉町交差点あたりと考えていました。ところが最近当時の東京市街地図を手に入れたので検証してみたところ、考え違いをしていたことがわかったのです。

まず囚人馬車が日比谷に行く経路ですが、当時の市ヶ谷監獄は今の台町にありました。しかし台町坂はまだなかったので馬車は安養寺坂を下り曙橋商店街から靖国通りに出て左に曲がることになります。問題はこの次で、日比谷に行くためには津守坂を上がるルートと本村町を右に回って四谷見附に出る二つのルートがあります。でも当時の津守坂は非常に狭くとても馬車が通れないようであり、やはり本村町右折の線でほぼ間違いないと判断できます。

つぎに荷風ですが、余丁町から慶應義塾に行くのに当然市電に乗ったわけですが、当然靖国通りの住吉町交差点で電車に乗ったはずと散人は考えておりました。だから秋水を目撃したのも住吉町と思っていたのですが、今回調べてみて、実になんと当時の靖国通りには市電が走っていなかったことがわかったのです。荷風は市電に乗るためには四谷見附まで行くか、市ヶ谷見附まで行くか、いずれにせよ住吉町から相当歩いていたことがわかりました。

荷風はどちらの停留所を使ったかですが、両停留所とも余丁町からの距離はほとんど同じです。でも重要なことは坂です。四谷見附に行くには(徒歩ですからいろんなルートが考えられますがいずれにせよ)かなり急な上り坂を登らないと行けない。それに反し市ヶ谷見附の停留所は左内坂を下りた低地にあったと地図に書かれており、余丁町/住吉町から下り坂をだらだらと下って行けば着く。当然荷風は市ヶ谷に行ったと思われます。

ということで馬車と荷風の辿った道筋ははっきりしてきました。よって両者の接点は「住吉町から本村町までの間の靖国通り上のどこかである」ということになります。でも、正確にどの地点で出合ったかということは、まだはっきりしません。
再び荷風の文章に戻って
 市ヶ谷本村町に立ちこめる地霊
ここで荷風の文章をもう一度読むことにしました。荷風は「日比谷の裁判所の方に走っていくのを見た」と書いていることが重要であると思います。靖国通り(市ヶ谷の通り)上で馬車が「日比谷の裁判所の方に」行ったと表現できる場所といえば、どうしても本村町の交差点一カ所ということになるからです。荷風は通りを市ヶ谷見附の方角に歩いていた。馬車は荷風を追い越して、本村町を右折し日比谷の方角に向かって坂を上って行った、ということになるのです。

荷風がこの重要な「思案」をしたという本村町は、もと尾張藩の上屋敷でした。その後、陸軍士官学校となり、陸軍参謀部がおかれ、現在は防衛庁の新庁舎がそびえています。極東軍事裁判もここでやりました。三島由紀夫の自決場所としても有名です。なにか恐ろしい地霊がこの付近に立ちこめているような気がいたします。

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左の写真は靖国通り本村町丁字路を四谷見附側から見たところ。荷風と囚人馬車は左からやって来た。正面は防衛庁の新庁舎。
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このたび川本三郎の『荷風好日』が発売されました。同氏がこれまで雑誌などに発表されたエッセーをまとめたものですが、なかなか楽しめます。散人のコメントを掲示板に載せました。下のリンクです。

川本三郎『荷風好日

2002年3月2日土曜日

余丁町便り (No.004)


余丁町便り (No.004)
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余丁町散人

いよいよ春ですね。カブリオーレの季節です。車の幌を全開にしてドライブしました。風が暖かく、とても気持ちが良かったです。

北の丸公園を久しぶりに訪れました。マンサクと寒緋桜がとてもきれいに咲いていました。ハクモクレンの蕾はかなり大きくなっていましたから、もう一週間ぐらいで咲くのではないでしょうか。コブシの蕾はまだ小さく、咲くにはもう少し時間が掛かるみたいです。寒桜はもう葉をつけて葉桜になっていました。

わが家の紅梅は先週みごとに花を咲かせましたが、もうかなり散りかけています。ヒヨドリ、ムクドリ、シジュウカラがかわるがわるやってきて、梅の花を食べるから。

この季節はほとんど毎日花の様相などの景色が変わります。駆け足で春がやってくるのですね。


北の丸公園のマンサク

HPに視点コラムを

住友商事勤務時代に冊子「経済動向」に毎月連載していた「視点」というコラムのバックナンバーをHPに掲載しました。もう既に昔の話であり、あまり参考にはならないと思いますが、散人にとってはとても懐かしく、今回の収録に当たりコラムごとに読み返してみて感想やコメントを追記いたしました。当時はそれなりに一生懸命考えて書いたもので、いま読み返してみると恥ずかしくなるようなものもありますが、その時々の雰囲気を残しているものも多くあり、原文には手を加えず収録いたしました。自分史的な様相を呈しておりますが、ご笑覧いただければ幸いです。
なお、視点の古い分(96年から98年まで)についてはアップルの iTool ではなく自分でHTMLで別のサイトを作りました。テキストばかりのページですが、ちゃんと目次と本文のリンクが動きます。それをメーンサイトとリンクさせました。不細工なものですが、全部自家製です。何かプラモデルを作った子供のように喜んでおります。

神保町めぐり
***

北の丸公園に駐車してから神保町に行きました。東京堂書店で出たばっかりの川本三郎の『荷風好日』を購入。昨日までは平積みにしてあったのがきょうはもう一冊しか残っていないとのことで、最後の一冊を手に入れることが出来ました。荷風の人気恐るべしです。

同じ東京堂書店で坪内祐三と紀田順一郎のサイン本が置いてあり、ちょうど買いたかった本でもあり即購入。最近はアマゾンのオンライン書店で本を買うことが増えていますが、このようなサイン本などが買えるのはやはり神保町ならではです。

そのあとスヰートポーヅで餃子を食べました。この店、すずらん通りにありますが、戦前満州帰りの人が東京で開いた餃子店です(下の写真)。本場の大連で修行を積んだだけあって、なかなか美味しいとの評判。こんなお店が残っているのも神保町の良いところかも知れません。

再開発で神保町も町並みは大きく変わりつつありますが、たまに来るのもいいもんです。


2002年2月17日日曜日

余丁町便り(No.003)



余丁町便り(No.003)
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余丁町散人

わが家の遅咲きの紅梅がようやく少しずつ花を開かせはじめました。まだ満開にはほど遠い状況ですが、春を感じさせます。写真を入れておきます(クリックすると画像が大きくなりますよ)。

このウメはかなり歳をとった樹で、ムシなんかがついて、いろいろたいへんでした。そのへんの苦労を Gardening のページに書いておきました。ご笑覧ください。

わが家のウメ

HPの作業状況

一月から作成に取り掛かっているホームページも、だんだん形をなして参りました。最初はホームページ作成専用ソフトを使用して悪戦苦闘していたものですが、あまりに複雑でそうそうに諦め、アップル社のサイトで提供されている簡易ツールを使うことにしました。すると、とたんに作業がはかどり、いま何とか形を整えつつあります。

家内の家族がフランスからアクセスしてくれましたが、当然ながら日本語表示が読みとれないと言うので、英語版のサイトメニューも付け加えました。ヘッダーの一番最後のボタン(ENGLISH) で英語表示に変わります。
去年から散人は、Net News という電子会議システムに参加するようになっています。なかなか興味深いものです。NetNews Articles というボタンを押していただくと散人の投稿状況が分かります。ジャンルは政治経済から、グルメまでいろいろです。お覗きください。


「荷風塾」
***
世話人:散人
「荷風塾」というのをこのホームページに作りました。詳しくは「荷風塾」というボタンを押して「荷風塾 学校通信」というレターをお読みください。散人は本当に荷風が大好きなのです。荷風のことを話し出すと何時間も続いてしまします。そんな荷風に対する思い入れをこの「学校通信」でお伝えしたいと思います。これを肴に、更なる荷風談義を、ホームページ付属の掲示板で続けようとの魂胆です。

掲示板に書き込みをしてくださる方も、ぼつぼつ増えてきました。ありがとうございます。ホームページをご覧になられたら、ついでに掲示板に一言お書きいただけると、とてもうれしく思います。




2002年2月16日土曜日

〔再掲〕わたしの阪神大震災

わたしの阪神大震災〔再録〕

六千数百人の命を奪った阪神大震災から5年。個人的にも忘れることが出来ない事件であった。ちょうどそのとき関西に用事があり、宿泊していた西宮の両親宅で地震に遭遇したのだ。寝ている上にタンスが倒れてきて、更にその上に屋根が落ちてきた。身動きがとれず、土埃と屋根の重みで息も出来ない。右足の膝から下だけは、わずかに動いたので、体を少しずつその方向にずらして行き、最後は無我夢中で一気に脱出した。抜け出たところは崩れた屋根の上で、頭上には一面の星空があった。

それから罹災者生活が始まったが、余震が続く夜中、手帳に書き付けた「死なないためには」と題するメモが残っているので紹介したい。1)タンスの下では寝ないこと。どんなことをしてもタンスは必ず倒れる。2)ボロ家には住まないこと。古い家は例外なく壊れてしまった。3)水を確保すること。食べ物なぞはなくとも三日ぐらいは平気だが、水がないと本当にどうしようもない。井戸があれば一番よい。

この三点を心に決めて、交通手段の復旧と同時に東京に帰ってきた。しかし、以来5年、ひとつも実行できていない。寝ている部屋の壁には相変わらず本棚がある。住んでいるところも古い木造住宅だ。井戸を掘ることにいたってはだれも冗談だと思って相手にしてくれない。なぜ実行に移せないでいるのか。それは経済的な問題である。タンスのない広い部屋にも、頑丈な家を建築するにも、井戸を掘るにも、たいへんなお金がかかる。日本では最も基本的な「死なない」ことが、きわめて高くつくのである。

日本の個人金融資産が1300兆円だとか、GDPは世界二位だとか、日本はえらくお金持ちの国であるかのような錯覚がある。だからODAも大盤振る舞いだ。新年の各紙の社説にも、もう経済成長を追い求めるのはやめよう、生活の質の方が大切だ、という論調が目立った。でも大部分の国民が地震ですぐ壊れるような家に住んでいて、どうしてそんなことがいえるのか。生活の質は物質的な裏付けがあってはじめて得られるものだ。ゼロ成長でもかまわないと言うには、はっきり言ってまだ十年早いのである。少子化が進み、ひ弱な若者が増え、経済成長率の低下は不可避とする議論があるが、それにも同意できない。

阪神大震災の話に戻るが、地震の直後の瓦礫のなかで、子どものような若い婦人警官がひとりで、信号機が停止した街路の交通整理をしているのを見た。怪我した家族を車に乗せた男が大声で叫びながら猛スピードで交差点に突っ込んで来るのだが彼女はいっさいひるみを見せなかった。以来、筆者は若者と女性の悪口は言わない。労働力問題は若年層と女性の就業率を上げることで十分対応できる。

(橋本尚幸)

2002年2月13日水曜日

〔再録〕なぜいま荷風なのか? 高齢化社会と荷風


「荷風塾」学校通信
School News
2002.2.13創刊号      世話人/発行人 余丁町散人
「荷風塾」を開きました。
       余丁町散人
われらの荷風先生がお亡くなりになられてから早くも40年以上が経過しました。亡くなられたのは昭和34年4月29日。東京の東、市川の侘びしい住まいで、一人で血を吐いて死んでいるのを、朝仕事に来た家政婦のお婆さんが発見したのでした。

最後まで偏屈に一人暮らしを続け、胃潰瘍であったにかかわらず病院にも行かず、亡くなるその日にも近所の安食堂で「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼を平らげられ、その夜の大往生でありました。先生の逝かれた小さな6畳間には家具らしい家具もなく、散らかり放題で足の踏み場もなく、駆けつけた人たちの目をひそめさせたと言うことです。

なんという壮絶で、格好のよい死に方だったのでしょう。最後までご自分のライフスタイルを守られ、周辺から疎まれながら逝かれたのは、さすが憎まれっ子荷風と賞賛の念を禁じ得ません。

われら老人は、所詮世間の嫌われ者であります。同じことなら先生のように格好良く生きて、壮絶に死ぬことを目指して、みんなでお勉強し、修行したいと思います。よって「荷風塾」というものを作ったものです。

塾長はもちろん荷風大先生。場所はこのホームページについている掲示板。先生を肴にしていろいろおしゃべりをしませんか。そのおしゃべりの材料をこの「荷風塾 学校通信」で提供していきたいと考えます。

宜しくご贔屓の程お願いいたします。

なぜいま荷風なのか?
       高齢化社会と荷風川本三郎が荷風の話をするというので聴きに行ったことがあります。いやすごかった。川本三郎の話もさることながら、聴衆の平均年齢。ほとんどが散人よりももっと爺さんだったのです。荷風ファンは爺さんが多いと改めて実感いたしました。そういえば神田の古書店街では一番高く売られている古本は荷風の本だと聞いたことがあります。荷風が好きなのは高齢者。日本の資産は高齢者層に偏在している。かれらは余り消費はしないので経済評論家と称する人たちからは困りものだといわれているが、好きなものには金に糸目を付けない。だから荷風の本が高くなる、ということのようです。

荷風が若いころから既に自分を老人に見立てる傾向がありました。老人を否定的に見る実利第一主義の時代の中で、荷風はいわば老人の美学を追究したともいえるでしょう。老いてますます不良ぶりを発揮したのもうれしいことです。荷風は我ら老人たちの希望の星と言えるのではないでしょうか。日本の高齢化社会はいま始まろうとしています。よって自ずと荷風ファンも趨勢的に増え続けざるを得ません。まことに喜ばしい限りであります。

いま急速に高齢化が進んでいる中、テレビなんかで高齢者の生きがいはどう見つけるかとのテーマで番組が組まれたりなんかしております。でも散人に言わせれば馬鹿なことであります。もう何十年も前に永井荷風先生が答えを与えてくれているではありませんか。みんなが荷風みたいに不良老人になれば老後の人生もスリリングでまた楽しくなるのです。簡単なことであります。

でも荷風先生のライフスタイルは、昨日今日の付け焼き刃的な修行ではとても真似できるものではありません。何せ年期が入った不良生活です。その意味で、いまの若い世代も今のうちから荷風先生の生き方を勉強し、修行を積み重ねる必要があります。小さいときから始めておかないととても「大荷風」みたいには成れません。だからお若い方もぜひご一緒にわいわいやりましょう。
荷風旧居(断腸亭)跡
     新宿区余丁町
散人が住んでいる新宿余丁町には荷風が住んでいた断腸亭跡があります。新宿区の史跡に指定されたとかで、ようやく最近になり看板が立てられました。左の写真です。

都営地下鉄新宿線の曙橋駅から台町坂を抜弁天に向けて登り切ったあたりです。ビオセラ・クリニックという診療所の前に「断腸亭跡」との看板が出ていますが、正確にはここは永井荷風が入江子爵に売り払った土地であり、実際の断腸亭はその裏、つまりいま郵政省の宿舎が建っている地所の後ろあたりとなります

つい最近「メゾン・ド・ピュア」という変な名前の女性専用マンションが、まさに本当の断腸亭跡に建てられ、住まれている若い女性の方々の通勤通学で、一時はうらぶれていたこのあたりも、にわかに華やかになってきました。元祖助平爺を自認する荷風の霊は、さぞや喜んでいることと推察いたします。なによりの供養だと思います。

第一回はこのへんにします。続きをお楽しみに。

(下にいくつかの荷風と余丁町に関するリンクを付けました。「荷風のいた風景」とは松本哉の文章です。なおロゴと写真はクリックすると拡大画像が見られます)

断腸亭日乗(摘録)牛込抜弁天郵便局「荷風のいた風景」

〔再録〕永井荷風と余丁町

創刊号 2002.2.13     世話人/発行人 余丁町散人

われらの荷風先生がお亡くなりになられてから早くも40年以上が経過しました。亡くなられたのは昭和34年4月29日。東京の東、市川の侘びしい住まいで、一人で血を吐いて死んでいるのを、朝仕事に来た家政婦のお婆さんが発見したのでした。

最後まで偏屈に一人暮らしを続け、胃潰瘍であったにかかわらず病院にも行かず、亡くなるその日にも近所の安食堂で「甘くてべちゃべちゃする」カツ丼を平らげられ、その夜の大往生でありました。先生の逝かれた小さな6畳間には家具らしい家具もなく、散らかり放題で足の踏み場もなく、駆けつけた人たちの目をひそめさせたと言うことです。

なんという壮絶で、格好のよい死に方だったのでしょう。最後までご自分のライフスタイルを守られ、周辺から疎まれながら逝かれたのは、さすが憎まれっ子荷風と賞賛の念を禁じ得ません。

われら老人は、所詮世間の嫌われ者であります。同じことなら先生のように格好良く生きて、壮絶に死ぬことを目指して、みんなでお勉強し、修行したいと思います。よって「荷風塾」というものを作ったものです。

塾長はもちろん荷風大先生。場所はこのホームページについている掲示板。先生を肴にしていろいろおしゃべりをしませんか。そのおしゃべりの材料をこの「荷風塾 学校通信」で提供していきたいと考えます。宜しくご贔屓の程お願いいたします。

高齢化社会と荷風川本三郎が荷風の話をするというので聴きに行ったことがあります。いやすごかった。川本三郎の話もさることながら、聴衆の平均年齢。ほとんどが散人よりももっと爺さんだったのです。荷風ファンは爺さんが多いと改めて実感いたしました。そういえば神田の古書店街では一番高く売られている古本は荷風の本だと聞いたことがあります。荷風が好きなのは高齢者。日本の資産は高齢者層に偏在している。かれらは余り消費はしないので経済評論家と称する人たちからは困りものだといわれているが、好きなものには金に糸目を付けない。だから荷風の本が高くなる、ということのようです。

荷風が若いころから既に自分を老人に見立てる傾向がありました。老人を否定的に見る実利第一主義の時代の中で、荷風はいわば老人の美学を追究したともいえるでしょう。老いてますます不良ぶりを発揮したのもうれしいことです。荷風は我ら老人たちの希望の星と言えるのではないでしょうか。日本の高齢化社会はいま始まろうとしています。よって自ずと荷風ファンも趨勢的に増え続けざるを得ません。まことに喜ばしい限りであります。

いま急速に高齢化が進んでいる中、テレビなんかで高齢者の生きがいはどう見つけるかとのテーマで番組が組まれたりなんかしております。でも散人に言わせれば馬鹿なことであります。もう何十年も前に永井荷風先生が答えを与えてくれているではありませんか。みんなが荷風みたいに不良老人になれば老後の人生もスリリングでまた楽しくなるのです。簡単なことであります。

でも荷風先生のライフスタイルは、昨日今日の付け焼き刃的な修行ではとても真似できるものではありません。何せ年期が入った不良生活です。その意味で、いまの若い世代も今のうちから荷風先生の生き方を勉強し、修行を積み重ねる必要があります。小さいときから始めておかないととても「大荷風」みたいには成れません。だからお若い方もぜひご一緒にわいわいやりましょう。
散人が住んでいる新宿余丁町には荷風が住んでいた断腸亭跡があります。新宿区の史跡に指定されたとかで、ようやく最近になり看板が立てられました。左の写真です。

都営地下鉄新宿線の曙橋駅から台町坂を抜弁天に向けて登り切ったあたりです。ビオセラ・クリニックという診療所の前に「断腸亭跡」との看板が出ていますが、正確にはここは永井荷風が入江子爵に売り払った土地であり、実際の断腸亭はその裏、つまりいま郵政省の宿舎が建っている地所の後ろあたりとなります

つい最近「メゾン・ド・ピュア」という変な名前の女性専用マンションが、まさに本当の断腸亭跡に建てられ、住まれている若い女性の方々の通勤通学で、一時はうらぶれていたこのあたりも、にわかに華やかになってきました。元祖助平爺を自認する荷風の霊は、さぞや喜んでいることと推察いたします。なによりの供養だと思います。

第一回はこのへんにします。続きをお楽しみに。

2002年2月9日土曜日

余丁町便り (No. 002) 2002.2.9



余丁町便り (No. 002)
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余丁町散人

このところ暖かい日が続いて、庭のツツジが季節を間違えたのか、一つだけですが小さな花を咲かせました。昨年秋に水を切らせてほとんど枯れさせてしまったものですが、その後いろんな人のアドバイスにしたがって手入れをしていたところ、何とか狂い咲きをするぐらいにまで元気になりました。写真を写真ページに入れておきましたのでご覧ください。

ところで、やっとデジカメを買いました。いままで何となく買う気になれなかったものですが、ホームページに写真がないとやっぱり淋しいと思って、散人の誕生日(1月31日)を機会に買ったもの。なかなか良いものですね。もっと前に買って居ればよかった。


掲示板を開設

ホームページに来られる方と自由な意見交換が出来るのも良いなと思って、掲示板を作りました。なまえは「余丁町散人の隠居小屋」と言います。したにリンクを表示してありますのでクリックしていただくと来ることが出来ます。掲示板とはボレティン・ボード・システム(BBS)といって、ネット上に作られた複数の人たちが意見交換したりお話をしたりする場所のことです。難しい規則なぞ何もありませんので、気軽にお越しください。匿名で書いていただいても一向に構いません。

今のところ、散人が主に書いておりますが、それでも二三の方には書き込みを始めていただいています。どうぞお気軽にご参加をお願いいたします。自由にスレッドの設定(話題の提起)が可能ですし、話題もまったく自由です。
昨日、出席したセミナー「ダイワのスペシャルトーク」で若林栄四氏のお話がとても印象的で裨益するところ多大と思いましたので掲示板にもポイントを載せておきました。読まれて損はないと思います。

女房どのとピカチュウ
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女房どのの受勲に関して多くの方からお祝いのメッセージを頂き有り難うございました。女房どのも喜んでおります。あれ以降いろいろの公式行事などが続き、散人が一人でお留守番をするというのが多いのですが、おかげでホームページの製作作業もぼちぼち進んでおります。このアップル社のサイトで、全くの素人でもなんとか web ページが作れてしまう(おまけに美しい雛形が揃っているのできれいなものが出来る)というのは本当にすごいことです。やっぱりアップルは偉いのです。

うちの猫(ピカチュウ)もページに写真を載せたおかげで、多くの方から「でっかい猫だ」とのご感想をお寄せいただき恐縮です。すっかり有名になって本人(?)は得意気であります。

この次は愚息のことも紹介出来るように、次に家に来たときに彼の写真を撮るように致します。

2002年1月30日水曜日

Annie's Honor

〔旧HP閉鎖に伴い要保存コンテンツをここに転載〕

Annie Vercoutter 国家功労勲章シュヴァリエ叙勲式大使の挨拶 (2002.1.23)
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1.フランス共和国上院議長、上院議員の皆様、そしてご出席の皆様,この度のクリスチャン・ポンスレ フランス共和国上院議長ご一行の来日は大変光栄なことであり、お越しくださいましたことに対し、ここにおります全員を代表して厚く御礼申し上げます。そして本日、ヴェルクテール=橋本様の日仏関係への高いご貢献に対し、フランス共和国大統領並びにフランス政府から国家功労勲章シュヴァリエ 叙勲式を挙行できますことは、私の大きな喜びと致すところでございます。 お二人に栄誉ある勲章を授けられますことは、日本におけるフランス人社会の活力、質の高さ、多様性、そして日本への密着度を物語るだけでなく、そこに一貫性があることをも示しています。お二人とも、それぞれの分野に置いて、フランス人社会の利益を守るために努力されているという、共通点があるのです。 本日お二人の受賞者のためにお集まりくださいました、ゲストの皆様方にも敬意を表したく存じます。

 2.ヴェルクテール=橋本様、在日日仏家族の会 会長であられる貴女は、お父様が高名のエジプト学者でいらっしゃいました。そしてお若い頃からアジアに興味を持ち、中国語と日本語を熱心に勉強され、この道の専門家として広く認められるに至りました。 1965年から73年まで、パリの高等中国学院、そして高等教育実務学院で図書館司書をつとめられました。 研究と教育への関心は深く、1984年から98年まで、諸外国で日本政府が発行している冊子「Cahier du Japon」と緊密な協力関係を構築されました。日仏会館発行の雑誌「Ebisu」の編集委員会のメンバーでもあり、また、在日フランス商工会議所発行の雑誌「France Japan Echo」にも定期的に記事を執筆なさっています。東京のパリ高等経済学院でも5年間にわたり、日本文明についての講義を担当なさいました。 教育にも情熱を注いで居られます。日本滞在中のみならず、中南米のメキシコ、カラカス、ブエノスアイレスにご滞在中も、日仏学院やアリアンス・フランセーズで、教鞭をとられました。日本では、若い外交官がフランス語とフランスのより良い理解のために研修をする機関である外務省外国語研修所、そして一橋大学でも、講師としてフランス語の普及に尽力されました。 さらには、教育者としての経験に根差し、日本の教育制度をフランスに分かりやすく紹介されました。中でも、フランス大学図書出版の「今日の教育」シリーズの一冊として1997年に発行された「日本の学校で」という著作は、今までほぼ未開拓であったこの分野での必読書となりました。 私は着任以来ずっと、貴女の、ご自身の信条を貫き、日仏間の対話に前向きな姿勢を高く評価しています。貴女は常に、在日フランス人に日本をよりよく理解してもらおうと心を配り、特に日仏家族を気遣われています。貴女の長年の活動はこうした考えに根付いているのです。 

3.貴女は、在日日仏家族の会 会長として、日仏両国民の効果的な親交を図るべく、出会いの場を作り、交流を促しました。そして、最初はとてもかけ離れているようにみえるけれども実はフランスとの共通点も多くある日本文化を、大人にも子供にも理解させ、日常生活に困らないようにしました。 貴女はまた、日仏家族が抱える問題、たとえば二つの母国語、教育、個人としての権利の問題などについての話し合いの場を定期的に提供しています。こうして、日本における最初の「FLAN-母国語としてのフランス語」計画を打ち出しました。このプロジェクトは、外国におけるフランス語教育庁が特別の関心を払ってその行く末を見守っています。 ヴェルクテール=橋本様、数多くお持ちの才能を存分に発揮され、両国民の相互理解の促進に寄与されました貴女は、その活動のゆえに、そして日本におけるフランスの存在にとって、貴重なお方でいらっしゃいます。 ですからこそ、フランス共和国大統領の名に於いて、そして私どもに与えられた権限により、貴女を国家功労勲章シュヴァリエと致します。

〔翻訳、在日フランス大使館)

冬のお便り 2002.1.30



冬のお便り 2002.1.30
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余丁町散人

すっかり寒くなって来ました。我が家の庭にはちょうど水仙が咲き始めました。昨年球根を埋め戻したものですが、効果があったようでとてもきれいです。

庭のウメとハナモモが小さな芽を着けています。寒さの盛りですが、春遠からずというところでしょうか。

猫の散歩

うちの猫(ピカチュウ)にハーネスを付けて散歩させています。まだまだ慣れないので、まず庭の中を動き回らせています。だんだん上手になってきました。そのうち外にも連れ出します。
一昨年の10月に公園に捨てられていた子猫ですが、知人(カトリーヌ)が通りかかると足にしがみついてよじ登り始めたそうです。とても生きようとする意志が感じられ、カトリーヌはどうしても置き去りにすることが出来なかったそうです。いろいろあって散人宅で引き取ることになりました。立派な雄猫に成長。体重は5.4キロになりました。
ホームページを作ってみようと勉強を始めました。まず手始めにこのマックのサイトで試してみようと思います。徐々に手を入れていきます。

結構楽しいものですね。

デジタルカメラも買わなくっちゃ。

女房どのの受勲
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Annie Vercoutter

わが女房どの は今般、フランス政府から国家功労賞(オルドゥル・ナシオナール・ドゥ・メリット)を頂きました。長年にわたる日本研究、著書の『日本の学校にて』、及び日仏家族の会会長としての貢献が評価されたものであり、大変名誉に思っています。散人も「内助の功」が認められたことで、嬉しく思います。

叙勲式におけるフランス大使のスピーチは、女房どのの人生を簡潔に言い表していると思いますので、次のページに載せておきました。

2001年12月1日土曜日

いわゆる「体育会」的なもの

「紺青」2002 Vol. 21 (2001年会報) に寄稿


いわゆる「体育会」的なもの


たまにではあるが、悪いものを食べて寝た晩など、紐の夢を見ることがある。何か差し迫った状況の中、必死でなにかの紐を結ぼうとするのだが、うまく行かない。状況はどんどん悪化して行く。だれかに大声でせきたてられているのだが、どうしても「舫結び」のやり方が思い出せない。「わあ、どうしよう」というところで目が覚める。ヨット部でクルーをしていたときスキッパーから怒られた経験が、いまだにトラウマとして残っているのだ。

ことほどさように、僕はできの悪いクルーであった。もともと体育会ヨット部に入部したのもスポーツが苦手であるくせにスポーツ選手にあこがれていたため。普通の運動部だったら中学高校からの経験者がうなるほどいるだろうが、ヨットなぞやっている高校生は少ないから同じスタートラインで勝負できる。ひょっとしたら自分もいいところまでいけるかも知れないという期待があったから。でも入部早々、その期待が甘かったことをさんざんに思い知らされることとなった。

それでもなんとか四回生までヨット部を続け、最後は全日本にも出ることが出来たのは、かなりラッキーだった。郷にいれば郷に従え、朱に交われば赤くなる。上級生になると入部したときの苦労は何とやら、スナイプの上で怒鳴り散らすスキッパーとなっていた。クルーの丸山清喜君には今でも悪いことをしたと思っている。でも当時はそうでなければ勝てないと思っていた。

卒業して社会人になっても、しばらくはディンギーのクラブ・レースなぞに出たが、問題はクルー。なり手がなかった。家内をうまく言いくるめて一緒に乗って貰うのだが、続かない。あんたはあまりに serious だという。レースとなれば遊びじゃないのだから真剣にやらねばならないと説明しても、日本人はテンションが強すぎてヨットには向いてないと暴言を吐く。家内はフランス人でブルターニュの海で小さいときからディンギーに乗っていた。ご存じのようにあの辺のディンギー乗りは凄い。でも云っている意味がよくわからなかった。

ようやく家内の云っていることがわかったのは、ベネズエラに駐在したとき。ビーチ・クラブでスナイプに乗ることになって、あるとき知り合ったフランス人の若者にちょっとスナイプを貸してやったが、彼の乗り方にまさに驚倒した。家内と二人で出ていったのだが、しばらくすると家内を下に座らせて自分でバランスをとり、完全にティラーを放して、セールのトリムとバランスだけで自由自在にスナイプを操りだしたのである。あれはとてもまねが出来ない。後で家内に聞くと、かれは完全にリラックスしていて、冗談いいながらの楽しいセーリングだった由。あんたとえらい違いだったと笑われた。

日本のセーリングの歴史も結構長くなった。アメリカズカップにも何度も出場できるぐらい資金的にも余裕が出てきている。でもセーリングの技術水準はまだまだ低いと認めざるをえない。特にうまいスキッパーの数が少なく、底辺が育っていないように思う。どうも選手育成の段階における、硬直的な上下関係に基づく練習風土、いわゆる「体育会」的風土がそれを阻んでいるように思う。どのスポーツでもそうだが、歯を食いしばってただただ努力するやりかたでは、ある一定のレベルには到達してもそれ以上は難しい。特にヨットのような個人競技の色彩が強く、遊びのファクターが大きいスポーツでは、自由に楽しみながら技を極めるという姿勢が大切ではないか。

「何を今更、今はもうそういうやり方で練習しているよ」というなら、これほど嬉しいことはない。

橋本尚幸(S43卒、スナイプ)





2001年3月1日木曜日

私の羽根飾(こころいき)

この3月末で、33年間にわたる会社生活を終え、少し早いが引退生活に入ることとなった。5年間書き続けたこのコラムも、これが最後となる。これを機会に、価値観という観点から日本の問題を考えてみたい。

会社生活をはじめた頃は、高度成長期のさなかだった。当時の日本は、まだまだ貧しく、世をあげて経済成長が指向されていた。三分の一世紀が経って、日本の一人あたりGDPはすでに米国の水準に肩を並べ、数字の上では豊かな国となった。しかし国民は豊かさを実感できず、逆に国全体に、伝染病のように重苦しい閉塞感が広がっている。

そもそも物質的な富の増大とは、国民幸福の実現のための手段であったはずだが、その手段がいつの間にか目的と化してしまい、実現される名目上の富を真の豊かさに転化する戦略が、国家レベルにおいても個人レベルにおいても、忘れ去られていたように思える。

この10年進められてきた構造改革にしても、本来は国民の豊かさを実現する手段であったはずだが、構造改革を進めた90年代に国民は1200兆円の資産を失うことになる。日本の年間自殺者数は3万人を越え(1999年)、そのうち30%(9000人)は、経済的理由によるものと云われる。ベトナム戦争の時でさえ、米軍の戦死者は年間平均で5000人程度であった。国民の豊かさを求めて皆がこぞって進めてきた改革が、皮肉にも国民の生命財産に多大の犠牲を強いている。ここにも目的と手段の関係に歪みが見える。

その結果、社会の価値観に揺らぎが生じはじめている。「みんな一緒に、仲良く、一生懸命」という古い共同体の価値観は徐々に力を失い、そうかといって、それに替わる新しい価値観は、まだ社会に定着していない。集団の迷走を押しとどめ、社会にバランスをもたらすのは、結局、意見を持つ個人の存在でしかない以上、一刻も早く健全な個人主義が、日本社会に根付かなければならない。

しかし残念なことに、日本には「個」が育ってこなかった。日本文化に「個」がなかったわけではないが、西欧文明における「個」とは、社会を構成する最小限の核として積極的な意味合いを持つのに対し、日本文化における「個」は、西行、山頭火などのように、社会に背を向けた漂泊の詩人というポーズを取ることが多い。特に人が共同体のありように幻滅を感じたときに、日本人はこの消極的な「個」に逃避する傾向がある。

「個」の在り方を考える上で参考となる例として、ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を引用したい。最後まで権威に迎合することなく、貧窮の中で最期を迎えたシラノは、(自分の地位財産は奪えても、決して自分から奪えないものがある。それは)「私の羽根飾(こころいき)だ」と叫ぶ(辰野隆、鈴木信太郎訳)。羽根飾とは彼の尊厳の象徴だった。個人主義の国フランスでは、シラノが今なお最も好まれる人物像となっている。結局、「個」が生きる社会とは、他から与えられるものではなく、各人が自分の尊厳(ディグニティー)を守る努力をすることで実現するものだと思う。

小生も最後に「私の羽根飾(こころいき)」と云って筆をおくこととする。さようなら。

(橋本尚幸)

2001年2月1日木曜日

「徳政令」の亡霊に怯える現代日本

今年のNHK 大河ドラマ「北条時宗」は、なかなか快調な滑り出しだ。秩序を重んじ公儀に生きるという、伝統的な侍のイメージとは大きく異なる、どぎついまでに個性的で荒々しい武士がたくさん登場するのが面白い。舞台の鎌倉時代は、いろいろな意味で日本の源流を形づくった時代だが、我々の祖先はもともとこういう人たちであったのだと思うと、なにやら元気が出てくる。

経済史的にみると、鎌倉幕府とは地方地主の権利を朝廷に認めさせた一種の共和政権といえる。幕府の成立はイギリスのマグナ・カルタの調印よりも古く、世界史的にも誇りうるものだ。

一方で、鎌倉時代にも汚点がある。弘安の役で困窮した御家人集団を救うため実施された、すべての借金を棒引きにするという「徳政令」のことである。債務者にとっては、債務の免除は確かに「徳政」かもしれないが、債権者にとっては資産の召し上げであり「悪政」となる。だから「徳政令」とは、「公的権力による、特定の集団からの富の収奪と、別の集団への富の再分配」と定義したほうがよい。

たいていの場合、徳政令の受益者の声の方が大きいので政治的に人気を得やすい。よって鎌倉時代以降、歴代政府は、いろいろ形を変えながらこれを繰り返して来た。

記憶に新しいものは、太平洋戦争後の新円切り替えだが、政府は預金封鎖とインフレで債権者(預金者)の資産を奪い、債務者(政府)の借金を棒引きにした。戦後の「ばらまき行政」にしても、納税者から特定既得権集団への富の再分配であり一種の徳政令だ。魅力のある鎌倉時代ではあるが、以後につながる「徳政令」の前例を作ったのだけは感心しない。

今、積み上がる巨額の財政赤字を抱え、政治家や官僚がこの伝統の「徳政令」の誘惑に駆られるとしても驚くことではない。平成の世に、徳政令をどういう形で具現化させうるかというと、まずはインフレという形での借金の棒引き。すべての国民の資産の実質価値を低下させることで債務者(政府)の借金を棒引きにできる。また資産課税や相続税の徴税強化もある。政府の債務は700 兆円。それに対し日本の個人金融資産は1300 兆円。人はいつかは死ぬので、気長に待ってこれを相続税で召し上げればよいとの安易な発想。だから財政再建になかなか本腰が入らない。

でも、こうした徳政令は、過去には成功したかも知れないが、平成の世には決して成功しないだろう。内外物価の平準化で当分はデフレが続くので、インフレ誘導はやろうとしても難しい。平均寿命はどんどん延びるので、相続税収も期待できない。一番大きな理由は、昔の日本経済は閉鎖経済であったが、今はグローバル経済の時代だということだ。国民と政府の関係は、伝統的な運命共同体的な関係から、間に距離を置いた利害関係に変化しつつある。国民の政府に対する信頼感がいったん低下するや否やキャピタルフライトが始まる。これは諸外国で経験済みのことである。

資本市場のセンチメントがなかなか好転しないのは、納税者から富を集め既得権集団にそれを再配分するという、昔ながらの政治の「徳政令」的体質に、市場が不安を感じているからだと思う。

(橋本尚幸)

2001年1月1日月曜日

インデックス型投資信託と総合商社

2000 年後半の日本の株価下落はきびしかった。なかでもハイテク株の急落はきつく、時代を先取りするつもりでIT 関連の株を多く組み込んだ成長株投信を買っていた人たちは、苦い思いで年末を迎えたのではないだろうか。こんな方にぜひ読んで貰いたい本がある。バートン・マルキールの『ウォール街のランダム・ウォーカー』という本だ。

「株式投資の不滅の真理」との副題がついたこの本はアメリカですでに150 万部近く売れている。結論は全ての戦略的な投資信託は疑ってかかれと云うもの。著者は、何千本と販売されている投資信託(バリュー型、ファンダメンタルズ型、成長型、テクニカル型などなど)の過去のパフォーマンスを徹底的に検証し、ほとんどの戦略的な投資信託は単純に機械的に投資を分散するS &P インデックス連動型投信よりもパフォーマンスが悪いことを立証したのだ。株価の動きは結局誰にも解るものではないので、いわゆる「戦略ファンド」はファンドマネージャーに支払う馬鹿高い報酬分だけ確実にパフォーマンスが悪くなると云う、まことに理屈にあった理論だ。

当然投信の運用で飯を食っているファンドマネージャーには大変評判が悪いが、個人投資家には大人気でミリオンセラーとなっている。

さてこの理論の企業経営へのインプリケーションを考えてみたい。このマルキールの教えを早くから実践している企業が存在するのだ。それこそ世界に冠たる日本の総合商社だ。

扱い品目は二万点を越えると云われ、産業の隅々にまでその活動範囲を広げており総合商社の業容は日本経済の縮図とも云われる。実際に総合商社の粗利益はGDP などのマクロ指標と驚くほどの相関性がある。まさにビジネス版のインデックス投信だ。総合商社はその幅の広さ故に抜群の不況対応力を持ち、数々の「冬の時代」を乗り越え生き残ってきた。このことは総合商社の今後の課題を考える上できわめて示唆的である。二つのことが言えよう。

まず第一に、総合商社にとって「総合性」こそがコアコンピタンスであるということ。「戦略分野」なるものを特定し突っ込むのもよいが、むしろ経済全体の構造変化に的確にフォローし資源配分を継続的に変化させ続ける事が重要となる。総合性を失った総合商社は「ただの会社」だ。

二つ目に言えることは、社内コストの低減が重要課題であるということだ。インデックス型投信が競争力があるのは運用コストが圧倒的に安いからである。前述のように商社の粗利益はマクロ指標で規定される以上、いかにコストを削減し生産性を上げるかで純利益に差が出る。はやりのIT をいかにコスト削減に結びつけうるかが勝負の分かれ目となる。

蛇足ながら、マルキール理論は国民経済についても適用可能だろう。最近、政治家や官僚が今後の成長分野はこれだと変な指導力を発揮しているのをみるとある種の危うさを感じる。コルベール以来、上からの産業政策が成功した例は少ない。何もしない小さな政府は、変なリーダーシップを発揮する大きな政府に勝る。

(橋本尚幸)

2000年11月30日木曜日

資産の活性化が日本再生の鍵

米国大統領選挙での大接戦はいろんな意味での国の二分化を示すものとして暗示的だが、そのひとつに富の二分化がある。今回の選挙の両党の得票者を所得階層別に分類したデータによると、年収5万ドルを境として収入が高いほど共和党への投票者が増え、逆に収入が低くなるほど民主党への投票者が増えるというきれいな対照性が観察できる。米国では上位1%の富裕層が株式全体の48%を保有しているが、この格差は更に拡大する傾向が見られる。

しかしこの富の格差が近年の米国経済の急拡大の原動力ともなっていたことも事実である。資本が集中することで、投資活動がより専門的でリスク許容度の高いものとなり、それが90年代の勇猛果敢な新規分野への投資と米国経済の大躍進に結びついた。

それに対し日本は、伝統的に平等を重んじる社会である。富の格差はきわめて小さい。上位一割の階層が所有する金融資産は全体の38%に過ぎず、上位1%の階層が株式の48%を保有するアメリカに比べて遙かに平等だ。更にこの格差は縮小する傾向にある。今年の国民生活白書によれば90年代を通じて日本人の資産格差は着実に縮小してきたとのことだ。

背景にはバブルの崩壊がある。90年代で日本国民が失った土地と株式の資産総額は1200兆円という。種々前提をおいて推計すると、日本の上位中産階級(上位一割の世帯、約400万世帯)は一世帯あたり4000万円の損失を被った計算になる。これは格差の縮小につながったが、同時に国民の投資活動を萎縮させ保守化させる結果にもなった。一方で、長期にわたる不況にも拘わらず勤労者所得は実質では目減りしていない。一人あたり実質GDPは90年比で約12%上昇している。失業率も5%以下だ。だから国民の危機感はまだまだ希薄で、構造改革は進まず、経済は停滞したままだ。

日本においては、ほとんどの国民は勤労者であると同時に資産家でもある。90年代を通じて日本国民の「資産家の側面」は大いに痛めつけられ、逆に「勤労者の側面」は過剰に保護されてきた。高齢化、少子化を迎え経済の生産性上昇が喫緊の課題となっている。そのために資本の有効利用と積極的な投資活動が決定的に重要だ。国民の「資産家の側面」を活性化させる政策が21世紀の日本の経済再生の鍵を握る。

(橋本尚幸)

2000年10月11日水曜日

21世紀の総合商社

2000/10/11

総合商社とは簡単そうで複雑である。


通産省の貿易業態統計調査によれば日本に貿易業者は11843社あるという(平成5年度調査)。その大部分が中小業者であるが、その中で10社足らずの貿易業者が突出して大きく、総合商社と呼ばれている。

欧米にはない企業形態。欧米では貿易商社はあるが特定品目に特化するのが通常で、日本のように総合的にラーメンからミサイルまで取り扱うことはない。日本は欧米のまねをしながら経済発展をしてきたので欧米にない企業形態を持つ総合商社の存在というものに対して何となく居心地の悪い思いをしてきた。

それが総合商社に対する評価にも現れている。ある時は日本の経済発展の原動力、日本の秘密兵器と持ち上げられ手放しに評価されるときもあった。ある時には逆に商社は不要であるとか、斜陽であるとか、極端には「諸悪の根元」であるとか過小評価された。

時代の節目節目で総合商社への評価が変わった。評価にふれが大きかった。

21世紀を目前に控え、今日本は再び時代の節目にある。今再び総合商社というものに対する期待と不安が錯綜しているように思う。21世紀総合商社はどう生きて行くのか考えを述べたい。

商社の歴史

古い歴史をもつ商業(商社の基本形は普遍的で不滅)

商業とは古い歴史を持つ業種である。古くは縄文時代にすでに黒曜石の全国規模の交易が為されていたようだ。総合商社とは商業交易に従事する産業と考えれば決して特殊なものではない。歴史のある職業である。ちょっとやそっとの事でぐらぐらするようなものではない。

最も総合商社が現在のような総合的国際的な企業組織として大きく発展したのは明治以降である。長い歴史のある商人としての活動から大きな組織として動く「商社」への大きく変身していった。

商社変身の背景(社会のニーズへの対応)

その背景には社会のニーズがあった。近代社会へと脱皮を図る明治の日本社会と産業は彼らに足らないものをどん欲に商社という生まれて間もない国際企業に求めた。商社は賢明に彼らのニーズに応えるべく努力をして提供機能を増やしてきた。社会のニーズに応える形で商社は巨大化してきた。

戦後、日本は大きく変わったが、経済産業の発展の基本パターンは基本的にこの構図であった。

ある時は貴重な外貨を稼ぐために輸出の尖兵として、ある時は日本産業に欠乏していた技術と設備を海外から導入する代理店として、ある時は資源開発者として、非鉄資源原油の開発に邁進し、ある時は流通革命を担い、ある時は企業の海外進出のパートナーとして、そしていまITI革命の先方として日本の総合商社は活躍してきたのである。それらはすべて時代のニーズに応え、またニーズを先取りして提供機能を作り上げたものである。

プロダクツライフサイクル

製品にプロダクツライフサイクルがあるように商社の提供機能にも成長と衰退がある。

商社が時代時代で提供してきた機能も、その一つひとつを取り上げると、時代時代で浮き沈みがある。しかしそれら商社が提供してきたサービスと機能は、提供当時はたいへんなニーズがあったものであるが今やその意義を低めてしまったものが少なくない。

でも商社にはその提供機能が(提供能力が)形を変えて残っている。完全にはやめてしまったものはない。それら無数の「新規開発機能」は役割を終えた今でも総合商社に蓄積され積み重なっている。

それこそが日本の総合商社を世界でも類のないものとしている特徴に他ならない。機能の総合性である。

こういった外延一辺倒の拡張主義が「総花主義」とも批判された事も事実である。しかしこの総合性にこそ日本商社の特徴がある。世界の誰もまねのできない強み戸もなっている。

21世紀に向けて総合商社は?

結論的に行って21世紀は総合商社の時代になると思っている。商社は従来からの基盤をベースとしながら再び新たな機能を社会に提供し、変身し日本産業の新たな発展に寄与していく。さもなければ生き残る資格はない。

21世紀に商社が新たに提供していく機能とは何か?それはITであり、FTであり、LTであるのだ。

それに加えて商社の伝統的機能である「商業」へのニーズが再び高まるものと考える。今日yそうがすす店日本企業の戦略的資源の選択と集中がまだまだ進む。企業が今までインハウスでやっていた作業工程がどんどん外部化される時代になる。取引の発生であり企業間取引は幾何学的に増加する。それを仲介するのが賢い効率的な商社の仕事。21世紀は卸売業が再び脚光をあびる時代になる。機能のない介入は排除されて当然。競争力のある商社が安くて優れた仲介サービスを提供するのだ。無限のフロンティアがある。

なか向きされる仕事は中抜きされて当然。言いたいことは取引の絶対量、トータルのパイが増えることである。

すべての産業分野にコンタクトがある商社の総合性がこの場合の強みとなってくる。

投資会社としての商社の変身もある。商業とは組み合わせである。フォーメイションである。オルガナイザー機能。その中で不足する部品があれバッジ分でそれをつくる。商社の事業会社、投資会社としての性格である。それが隙間を埋めていく。

おわりに

戦後のある機関、大量生産大量流通がもてはやされ、商社の卸売業者としての地位が陳腐化したかのように見えた時期もあった。しかし今や生産車種道の大量生産大量流通の時代は終わった。需要か消費者の意向がもっと前に出てくる時代である。需要家のニーズを仲介する問屋に、古い産業であるが、21世紀再びニーズが増し、問屋が脚光をあびる時代になる。

いい意味での商人に徹して社会に貢献することが大切だろう。

2000年10月1日日曜日

企業と倫理と集団と個人

アリを注意深く観察した人によるとせっせと働いているかに見えるアリの群も本当に働いているアリは全体の2 割にしか過ぎず残りの8 割のアリはほとんどさぼっているとのことだ。全員を働かせようとして働くアリだけの群をつくっても結果は同じ事でその中の8 割がまた怠けはじめるらしい。逆に働かないアリばかりを集めると今度はそのうち2 割が働き出すという。「群」の本能なのであろう。

自然の摂理であるならば人間社会にも当てはまるかも知れない。でも人間はアリより頭がよいのでこの2 割という数字を少しでも引き上げて全体の生産性を上げるべくいろいろ工夫がなされてきた。ひとつのやり方は単なる「群」を組織化し規律を高めひとつの目標に向けて邁進する運命共同体化するものだ。

これはどうも最初はユーラシア大陸の軍隊ではじめられたようで、ローマの亀甲歩兵軍団は、その組織力とチームワークでヨーロッパ全土を制覇した。ベンガルのプラッシーでは、整然と隊伍を組んだイギリス東インド会社軍は、人数は数倍だが烏合の衆に過ぎなかったムガール軍を殲滅しイギリスのインド支配を確実にした。日本においても、個人プレーしかできない鎌倉武士団は集団戦法を採る元軍に全く歯が立たず危うく征服されるところであった。

なぜ組織化された軍隊は強かったのか。国際政治学者の亡き高坂正堯によれば、密集隊形をとる軍隊の強さの秘密は兵士達が決して「大義」などという高尚な目的の為ではなく「肘と肘を付き合わせドラムの響きとともに前進する隣の仲間を裏切らないため」だけに超人的な勇気を発揮するからだそうだ。つまり集団主義のドライビングフォースはまさに組織体と仲間への忠誠であり、それは正義とか倫理などの普遍的な価値観より優先されるということなのである。

ここに問題が生じる。この点をいちはやく指摘したのが夏目漱石である。漱石は「私の個人主義」と題した講演(大正3 年、於学習院)のなかで「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものである」と述べ、人間は集団となるとどうしても徳義心を失いがちであるからこそ個人主義が重要であると説いたのだった。

昨今のたび重なる企業不祥事は社会に企業倫理の問題を提起している。多くの企業でコンプライアンス・システムの制度化が検討されているが、集団の本質に触れた漱石の指摘は傾聴に値するだろう。漱石は続いて、この集団主義と個人主義という二つの主義は矛盾するものではないとも話している。しかし「この点をもっと詳しく述べたいのだが時間がない」とそれ以上は論を進めなかった。その後すぐ漱石は死んでしまったので我々は「もっと詳しく」聴けないままでいる。だから我々は自分たちでこの「解」を見つけるべく努力しなければならない。

(橋本尚幸)

2000年9月1日金曜日

まず身近なところから国際基準にあわせよう

暦では9 月7 日は「白露」といい、この頃から秋気が漸く加わるとされる。9 月に入っても気温が38 度近くまで上がることもあるが、ちょっとした涼風に秋が忍び寄ってきている気配を感じる時もある。夏をようやく過去形で語れるようになってうれしい限りだが、今年の夏は本当に暑かった。気象庁が発表した6 -8 月の気候統計によると、この夏、最高気温が30 度を超える真夏日が56 日もあり、熱帯地方さながらの記録的な猛暑であったという。

わけてもサラリーマンにとってたいへんだったのは朝の通勤だった。朝の太陽はすでに高くぎらぎらと人々を焦がし会社に着く頃には汗でハンカチはぐっしょりと濡れて気力ももうぐったりである。なぜ朝からこんなに太陽が高いのか。理科年表で調べてみると東京地方では午前3 時台にもう夜明けが始まる(6 -7月)。朝、会社に向かうときには夜明けからすでに5 時間程度経過しているのだ。太陽が高く暑いわけである。

先進国のなかで夏時間を導入していないのも日本だけだ。涼しいうちに会社に着けるよう夏時間の導入を真剣に検討してはどうだろうか。日本の諸制度をグローバル基準にあわせることが課題になっているが、こういう身近なところからまず始めて欲しいと思う。

国際標準に合わせる必要がある身近な問題はほかにもたくさんある。日本の都市景観もそうだ。特に空中に張り巡らされている無数の電線と無遠慮に林立する電柱は都市景観を著しく醜いものとしている。日本の社会資本ストック(残高)は一人あたりで先進国中ダントツだが電線の地中化では先進国はおろか発展途上国にも立ち後れたままだ。

日本のオフィス環境についても然りだ。一人あたりのスペースが非常に狭い。最近インドからIT 関連技術者がぼちぼち東京にやって来つつあるが、彼らは日本の狭くて劣悪なオフィス環境に仰天しているという。欧米先進国に範を求め日本の後進性を罵ることが本意ではない。

問題としたいのは、大多数の日本人がこういった問題をそれほど深刻には受け止めていないということである。「夏時間で明るいうちに家に帰れば亭主のこけんに拘わる」とか「電柱が無くなれば犬が小便するときに困る」とか「狭い事務所のほうが社内のコミュニケーションが良くなる」とかいう。しかしこういった小さなローカル性が日本を魅力のない孤立した国にしていることは認識されるべきだろう。

魅力のない国には人は集まらない。人が集まらなければ21 世紀の経済発展もない。日本の諸制度をグローバル基準に合わせることはもちろん大切であるが、こういった身近な生活環境から国際基準にあわせていくことのほうがより意味のあることのように思える。

(橋本尚幸)

2000年8月1日火曜日

グローバルスタンダード経営は日本企業を強くするか

株式会社に関する商法の規定の抜本的な見直しが検討されている。具体的には株主総会や取締役、監査役といった企業統治(コーポレートガバナンス)の在り方の見直しなどが柱だ。法務省では2年後をめどに法改正を目指すという。また経済同友会の企業経営委員会でも昨年来この問題についての検討が続いており年末には提言にまとめられる予定だ。あたかもよし。企業経営の目的は何か、企業経営はどうガバナンスされるべきか。この古くて新しい問題を取り上げてみたい。

最近の経営理論によれば企業は株主の利益のために存在するという。だから株主の立場からの企業経営者へのガバナンスを強化するべきでこれがグローバルスタンダードだとのことだ。確かに明快きわまりない。この数年の米国企業の力強い活躍ぶりと日本企業の低迷ぶりを見せつけられていると、この主張には説得力があり、簡単には反論しがたい雰囲気がある。けれども大多数の日本の経営者、従業員は、理屈はともかく、この理論には何かついてゆけないもの(違和感)を感じているのではないか。この違和感はどこから来るのか。

例えば「企業の目的は株主価値の最大化である。仕入先、従業員などのステークホルダーズへの報酬はあくまでも市場原理にもとづく利害調整にすぎず、これは経営目的とはならない」という。でもそもそも日本社会において企業とステークホルダーズの間に「市場」が存在するのだろうか。原材料とか所要資金とかの財・サービスには市場が存在するとしても労働力については市場はきわめて不完全である。転職は簡単ではない。また日本の労働者、従業員の勤労目的がどこかの国のように100 %経済的報酬の獲得だけにあるとも考えにくい。「意気に感じて働く」というタイプの従業員がまだまだ多いのである。

環境などの外部不経済については市場自体存在しない。日本ではステークホルダーズとの利害調整に市場原理が働かない(もしくはきわめて働きにくい)のである。前提が違う。よってこれらのステークホルダーズとの利害調整については経営者が個別に対処して行かねばならない。経営目的のひとつとならざるをえない。

経営者に対するガバナンスの強化についてもそうだ。グローバルスタンダード論者は独断専行に走る経営者を排除するためにガバナンスの強化が必要という。でも最近の日本経済の低迷を考えると、この状態からの脱出に必要なものはむしろもっと強力な経営者のリーダーシップではないのか。ガバナンス、ガバナンスといって「カバナンスを効かせたがその結果会社がつぶれてしまった」では笑い話にもならないのである。

企業は社会を構成するひとつの組織である。企業の所属する社会の特性に応じて企業の形態も異なってくる。さもなければ競争力を失う。日本社会はゆっくり変化しており、今はざかい期にある。その日本の現状にあわせ選択制の採用など現実性のある企業統治の在り方が議論されるべきだろう。

(橋本尚幸)

2000年7月1日土曜日

一年で激減した日本の対外純資産残高の謎

最近の日本では景気の悪い話ばかりが続くので少々の悪いニュースでは驚かなくなっているが、6 月に発表された99 年末の本邦対外資産負債残高統計には文字通り驚倒してしまった。昨年一年で日本の対外純資産残高が一挙に36 %、額にして49 兆円も減少してしまったというのである。これは一体どういうことか。

対外純資産残高というと日本が外国に対して保有している資産総額から外国に対して日本が負っている負債総額を引いたものであり、いわば日本国民の貯金である。60 年代から日本の経常収支の黒字を毎年こつこつと積み上げて98 年末にはようやく133 兆円にまで育ったものだ。日本が高齢化社会を迎える将来、高年層を養うために大きな助けとなると頼りにしていたもので、まさに虎の子の貯金であった。それが一挙に4 割近くも減った。これほどまでの大幅減は過去になかった。理由を確かめねばならない。

日本銀行によると、対外資産負債残高の基本的な増減要因は、99 年中の財サービスの貿易収支、所得収支と移転収支の合計である経常収支であるが、これは12 兆円のプラスに働いた。しかし円高による外貨建の純資産の評価減が22 兆円発生した。さらに本邦株価の大幅な上昇で日本の負債の時価評価が増加したことでここでも大きな評価損が発生し、合計では経常収支の黒字を大幅に上回る損失となった。その結果、対外純資産は49 兆円もの大幅減少となったということである。

要は、経常取引ではコツコツと黒字を積み上げたのにも拘わらず為替と株で大損をして稼ぎが全部なくなった上に資産を食いつぶしてしまったという話で、まことにお粗末な話だ。

もう少し具体的に中身をみてみたい。切り口を変えて、49 兆円の純資産の減少の内訳を、直接投資、証券投資、貸付残高、借入残高などの項目別にみてみると、純資産減少のほとんどは証券投資、なかでも株式投資の減少(45 兆円)で説明できることがわかる。株式投資をさらに資産・負債に分けてみてみると資産(日本人の外国での保有株式)は5 兆円しか増えていないのに拘わらず負債(外国人の日本での保有株式)は50 兆円も増加していることがわかる。外国人投資家の日本における株式運用実績はTOPIX の上昇をはるかに上回るものであった。また証券投資のなかでの株式比率が外国人投資家では高く、日本人投資家では低かった(逆に債券比率が高かった)ことも大きな運用実績の差につながったようだ。

結論的にいえば、日本国民は日夜残業して働き、財サービスを輸出し資産を築きあげたが、資産を運用する投資家の国際競争力に彼我で大きな差があったために、せっかくの資産もあらかた失ってしまったということである。アリの蓄えをキリギリスが奪ってしまったかたちだ。これを繰り返さないためにも、日本人はもっと投資に強くならねばならないと身にしみて感じた次第である。

(橋本尚幸)

2000年6月1日木曜日

景気対策の既成概念を問い直すとき

「人間は常に過去に学んだ経済理論の奴隷である」とは、古くさい経済理論への思いこみをいさめた警句であるが、日本の景気対策をめぐる議論を聞くにつけ、今さらながらこの言葉が思い起こされる。

いま日本で景気対策について為されている議論とはだいたい次のようなものだ。曰く「景気の回復感が今ひとつ感じられない。景気対策が必要だ。一方で積み上がる財政赤字はゆゆしき問題だ。しかしいま財政再建に手を着けると、ただでさえ弱い景気を更に冷やすことになる。それは経済理論が教えるところだ。経済学の教科書には、Y (GDP )=C (消費)+I (民間投資)+G (公的支出)とある。Gを減らすと同じだけY は減るので景気は悪くなるのだ。よって財政改革は景気が十分に良くなるまで待たねばならない」というものである。

この理屈は簡単であるだけに説得力があって、いままで財政再建は先送りにされ、ゼロ金利とともに公共事業中心の景気対策が継続されてきた。でも一向に自律的な景気拡大は始まらず、財政赤字は信じられないほどの大きさにまで拡大してしまった。今月発表された国際決済銀行(BIS )の年報はこの点を鋭く批判している。日本経済の低迷の「ただ一つの最も深刻な構造問題」は「弱い個人消費」であると指摘し、さらに「このままのペースで財政赤字の拡大を続けることは不可能(アンサステイナブル)」と、景気対策による政府財政の悪化が、雇用や年金受給に対する不安を強め、個人消費を萎縮させているとの見方を示している。

どうやら、いままでわれわれが正しいと信じて疑ってこなかった教科書そのものを問い直すべきときが来ているらしい。その意味で今般発表された富士通総研の絹川真哉氏による分析がとても興味深い。絹川氏は「構造的時系列モデル」という一般的な需要モデルに替わる新しいツールを使って日本において財政再建が短期的にも景気を刺激する効果があることを明らかにしたのである(FRI 研究レポート、May2000 )。われわれはこの研究成果を歓迎するものである。われわれ生活者の実感にきわめて近いものであるからだ。

多くのアンケート調査でも消費者の多くが消費支出抑制の理由として雇用、年金受給などにおいての将来の不安をあげている。将来不安が続く限り節約し貯金すること以外に何が自分の老後を保障してくれるというのか。国民がそう思えばこそ、一向に個人消費は伸びず、逆に実質値ではこの数年大きく減少し続けているのである。景気がいつまでたっても起爆しない根本的な理由はここにある。

いままで長い間、政府は在来型の景気対策を続けてきた。われわれはじゅうぶん待った。理論的な裏付けも、国際的機関からの外圧という大義名分も整った。「押してもだめなら引いてみな」という唄もある。いまやゼロ金利から脱却し財政再建に取り組むことことを考えるべき時ではないか。ひょっとしたら景気はいっぺんに良くなるかも知れない。「熱田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな」(額田王)

(橋本尚幸)

2000年5月1日月曜日

商社マンと異文化交流

春といえば人事異動の季節だが、これはいつも悲喜こもごもだ。海外への異動にしても、気候が良く文化の香り高い先進諸国へ赴任する人もおれば、灼熱の太陽に焦がされる砂漠の国に往く人もいる。もちろんそういうところが好きな人もおり、そのへんうまく調整すればよいのではあるが、これもなかなか難しく、赴任地が本人の個人的趣味と希望に一致している場合はむしろラッキーで、多くの場合なかなかそうは行かない。海外ポストの公募制も議論されるが、一刻を争う機動的なビジネス展開を命とする商社においては、これも現実的な選択肢ではない。よって多くの場合、商社マンは辞令を手にし、希望と使命感と、それに多少のフラストレーションを胸に抱いて任地に赴くことになる。

ほとんどの場合、赴任すれば自分の任地が好きになるが、少数ではあるが、自分の任地が最後まで好きになれない人もいる。こういう人たちに是非読んで欲しい本が、キャサリン・サンソムの『東京に暮らす 1928‐ 1936 』(岩波文庫)である。著者は昭和の初期に日本に滞在したイギリスの外交官夫人だが、当時の日本は軍国主義への道をまっしぐらに進みつつあり、外国人女性にとって決して住み易い環境ではなかったはずだ。それにも拘わらず、この本は驚くばかりに優しさにあふれた記述に満ちている。

「日本人を理解する唯一の方法は、他の国民を理解する時と全く同じで、まず相手に同情をよせ、そうしているうちに相手が好きになることです」という。実に参考になるではないか。実際、彼女は日本について多くのことを理解するようになる。例えば施主と職人気質の植木屋の不思議な関係のなかに、日本の権力構造の特殊性を発見する下りがあるが、鋭い。また日本における「個の自由」と「集団」の関係についても深い観察がある。夫人は注意深く言葉を選びながら、「個の自由」を優先するというイギリスの価値観のほうが、多くの社会的コストを伴うものではあるが、より優れているとはっきり述べる。さらに日本もやがてはその方向に変化していくであろうと示唆する。

文章に格調があり、観察に幅と深さがある。良著である。サンソム夫人の予言通り、戦後になって日本人は個人の自由を手に入れた。しかし最近、若者たちによる信じられないような事件が立て続けに起こり、人々は戦後の価値観そのものにも不安を覚えはじめている。集団から自由になった若者が、それに替わる新しい価値基準をいまだに見いだすことができず、袋小路に入り込んでいるのだ。しかしサンソム夫人がいうように、イギリスにおいてすら個人の自由を得るためには多大の社会的コストを支払わねばならなかった。このコストを恐れるあまり、真に大切なものを否定することはあってはならない。

(橋本尚幸)

2000年4月2日日曜日

教育改革に向けて国民的議論を期待する

小渕首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」が発足し、一年後を目途に提言をとりまとめることになった。教育問題はまさに国民的な関心事だ。閉塞感が漂う現代日本の諸問題を突き詰めて行くと、多くの場合、最後は日本の教育の問題に突き当たることを考えれば、この会議での議論の行方に注目せざるを得ない。そこで三つの具体的な提案をしてみたい。ご批判を乞う。

まず第一に、義務教育の自由化である。そもそも初等教育とは親の責任でなすべきものだ。学校ごとに多様なカリキュラムを認め、学校に行かせる行かせないも含め、コースの選択は親の自由とするべきである。今の義務教育は均質の労働者、兵員を大量に養成することを目的として、国民国家の成立とともに制度化されたもので、わずか200 年の歴史しかない実験的なものだ。人類の偉業の大部分は義務教育がない時代に達成された。義務であり離脱を許さないからいじめも発生する(いじめは刑務所や軍隊とかの逃げ場のない環境でしか起こらないことに注意)。学校も不適切な生徒を放校する自由がないから、学級崩壊が多発し校内暴力がのさばる。

第二の提案は大学入学試験に口頭試問、論述試験を大幅に導入することだ。論理的な表現力は、国際社会で生きて行く上でまことに基本的な能力であるにかかわらず、日本人はこれを苦手とする人が多い。大学入試には含まれていないが故に、若いうちに十分な訓練が為されないのである。

三つ目に望みたいことは大学院教育の拡充である。20 世紀を通じて世界中ではっきり観察されるトレンドは、教育の高度化と高学歴化だ。今や欧米諸国はいうに及ばず発展途上国でも、高級官僚、大企業の幹部のほとんどがマスターやPhD なのである。ところがそのカウンターパートである日本の官僚、民間ビジネスマンはいまだに大部分が学士だ。肩身が狭いという以上に、議論のベース、ロジックが彼我で微妙に異なるためコミュニケーションに支障が出る場合があるのだ。国際機関に日本人職員が少ないのもこれが理由だ。グローバル時代にこれはゆゆしき問題といわざるを得ない。具体的にどうするかだが、まず手始めに国家公務員は修士号を持っていることを採用条件としてはどうか。そうなれば多くの民間大企業もそれに倣って院卒の採用を拡大して行くことになろう。大学院に入らねばならないとなると大学生も勉強するようになるだろう。

以上の三点が筆者の提案である。これに対して直ちに多くの反論が出てくることは覚悟している。一番多いご批判は「そういうやりかたは公平でない」というものだろう。しかし筆者には、必要以上に公平であろうとする関係者の異常な努力こそが、日本の教育を大きく歪めていると思えてならないのである。

(橋本尚幸)

2000年3月1日水曜日

IT 革命と総合商社

商社株が注目されている。先日テレビで“サンデープロジェクト”を見ていたら、証券会社の部長さんの3 人のうち2 人が、IT 関連銘柄として商社株を薦めていた。それに対し司会(田原総一郎氏)はいまひとつ納得のゆかない様子であった。電子商取引が進めば中間業者は中抜きされるというイメージが根強いからだろう。

IT 革命が商社に与える影響を次の三つの切り口で考えてみたい。すなわち、1 )IT 関連の新規ビジネスと商社、2 )IT 革命に伴う取引形態の変化と商社の商権の帰趨、3 )IT による商社のコスト削減、の三つである。

まず、IT 関連で生じる新規ビジネスと投資については、商社は相当に有利な位置にあると見てそう異論はないだろう。商社はこの分野で多大の先行投資を積み上げてきている。またこの分野ではアメリカが一歩先を進んでおり、日本のIT関連の新規ビジネスはアメリカなどの技術や企業がグローバルに絡んでくる場合が多い。こういったアレンジは商社の得意分野で、いわば商社のお家芸である。

つぎにIT 革命が商取引に及ぼす影響だが、これについてはいろんな見方がある。総合商社のSCM 展開は確かにめざましいものがあるが、同時に商取引の電子化で機能のない中間業者が中抜きされる可能性もあるからだ。しかし見落とされがちな点だが、商取引の電子化は商取引の全体ボリュームを飛躍的に増大させるということが重要である。つまりITで取引コストが格段に安くなることで、従来インハウスにとどまっていた多くの工程が、自然に外部化され、従来は社内取引や工場内部の仕掛品の移動であったものが、今後は企業間商取引に置き換わって行くのである。つまりIT革命は最終消費額に対する卸売取引額の比率(W/R比率)を高め、川中の商社ビジネスは逆に増えるかもしれないのである。

三つ目のポイントは、IT革命による商社のコスト削減だ。現在アメリカにおいては、伝統的な産業(自動車製造、発電機器製造、農業など)で、ITを工程管理、資材購入などに活用することで大きなコスト削減が実現されつつある。日本の商社においてもそれが期待できる。総合商社の産出/投入関係を見ると、産出品目はいわゆる「商社機能」である。投入生産要素は「お金」と「情報」、それに「人」だ。これらの生産要素がIT革命ですべて安くなりつつある。調達方法の多様化で「お金」は安くなった。「情報」についても然り。最後の「人」だが、ITによるナレッジ・マネージメント・システムが整備されれば、商社マンの生産性を格段に上昇させ、単位労働コストを大きく押し下げることが可能になる。

以上の通り、総合商社がIT革命の担い手、IT革命の受益者として将来性が期待され、商社株が買われていることは、十分根拠のあることなのである。

(橋本尚幸)

2000年2月1日火曜日

わたしの阪神大震災

六千数百人の命を奪った阪神大震災から5年。個人的にも忘れることが出来ない事件であった。ちょうどそのとき関西に用事があり、宿泊していた西宮の両親宅で地震に遭遇したのだ。寝ている上にタンスが倒れてきて、更にその上に屋根が落ちてきた。身動きがとれず、土埃と屋根の重みで息も出来ない。右足の膝から下だけは、わずかに動いたので、体を少しずつその方向にずらして行き、最後は無我夢中で一気に脱出した。抜け出たところは崩れた屋根の上で、頭上には一面の星空があった。

それから罹災者生活が始まったが、余震が続く夜中、手帳に書き付けた「死なないためには」と題するメモが残っているので紹介したい。1)タンスの下では寝ないこと。どんなことをしてもタンスは必ず倒れる。2)ボロ家には住まないこと。古い家は例外なく壊れてしまった。3)水を確保すること。食べ物なぞはなくとも三日ぐらいは平気だが、水がないと本当にどうしようもない。井戸があれば一番よい。

この三点を心に決めて、交通手段の復旧と同時に東京に帰ってきた。しかし、以来5年、ひとつも実行できていない。寝ている部屋の壁には相変わらず本棚がある。住んでいるところも古い木造住宅だ。井戸を掘ることにいたってはだれも冗談だと思って相手にしてくれない。なぜ実行に移せないでいるのか。それは経済的な問題である。タンスのない広い部屋にも、頑丈な家を建築するにも、井戸を掘るにも、たいへんなお金がかかる。日本では最も基本的な「死なない」ことが、きわめて高くつくのである。

日本の個人金融資産が1300兆円だとか、GDPは世界二位だとか、日本はえらくお金持ちの国であるかのような錯覚がある。だからODAも大盤振る舞いだ。新年の各紙の社説にも、もう経済成長を追い求めるのはやめよう、生活の質の方が大切だ、という論調が目立った。でも大部分の国民が地震ですぐ壊れるような家に住んでいて、どうしてそんなことがいえるのか。生活の質は物質的な裏付けがあってはじめて得られるものだ。ゼロ成長でもかまわないと言うには、はっきり言ってまだ十年早いのである。少子化が進み、ひ弱な若者が増え、経済成長率の低下は不可避とする議論があるが、それにも同意できない。

阪神大震災の話に戻るが、地震の直後の瓦礫のなかで、子どものような若い婦人警官がひとりで、信号機が停止した街路の交通整理をしているのを見た。怪我した家族を車に乗せた男が大声で叫びながら猛スピードで交差点に突っ込んで来るのだが彼女はいっさいひるみを見せなかった。以来、筆者は若者と女性の悪口は言わない。労働力問題は若年層と女性の就業率を上げることで十分対応できる。

(橋本尚幸)

2000年1月1日土曜日

日本文化のルーツとグローバリゼーション

日本の家庭においては、冬の人気メニューのナンバーワンはなべ物とのことで、2000年の正月はどこにも出かけず、炬燵でおなべという人も多いかもしれない。99年中は、長引く不況のなか、東海村、新幹線、H2ロケットと日本中にちょんぼが目立ち、こんなことで日本は果たして大丈夫かと、いろいろ落ち込むことも多かった一年であったが、雪見酒におでんなど突っついていると、やはり日本人に生まれて良かったと実感するのである。そこで質問。世界で最初におなべ料理を食べたのはだれだ。

この問題は意外と複雑で、調べるとどんどん時代を遡ってゆく。結局、容器としての「お鍋」を最初につくった人が世界最初の「おなべ」を食べたと考えるのが妥当との結論となるが、こうなると考古学の問題だ。いちばん古い土鍋(土器)はどこにある。意外や意外、それは日本列島であった。最近、青森県で出土した縄文土器は、放射性炭素法年代測定によると約1万6500年前と判定され、世界最古とされた。

当時の縄文人たちは、竪穴式住居のなかで、たき火のなかに縄文式土器を据え、シカやイノシシの肉、魚介類、それに根菜類やトチの実からとったでんぷんなどを入れて煮立て、みんなでふうふう言いながら食べていたのだ。これは当時の地球では最先端の食文化であった(なにせ、他所には「お鍋」がなかった)。現代日本人のほぼ半数以上は縄文人のDNAを受け継いでいることが、これまた最新の科学技術で明らかになっている。だから、おなべ料理を発明したのはやはり日本人といえるのだ。

単なるおなべの話であるが、このことはいろいろ示唆的である。日本人は昔から物まね民族といわれてきた。しかし日本人はそのルーツに核となるしっかりした文化を持っていたからこそ、外来文化を、どんどん抵抗なく受け入れることが出来たのではないか。弥生時代になり比較的少数の外来人とともに農耕技術が日本列島に伝来するが、狩猟民族であった縄文人はそれをことごとく消化し、数百年にして世界最大級の墳墓群を有する農耕型の古代文明を築き上げる。アニミズム(古代神道)に生きていた日本人は、突然に仏教を取り入れ、200年程で世界最大の鋳造仏(奈良の大仏)を建造するまでに大変身する。弓こそ命と信じていた武士たちも、ポルトガル人が鉄砲を持ち込んでからわずか30年で、日本を世界最大の鉄砲生産国にしてしまう。明治維新後の西欧文明の移入は言わずもがなだ。

背景にあったのは、いくら外国の文明を受け入れたところで、自己のアイデンティティーは絶対に傷つかないという確信でなかったか。21世紀を目前に、日本は大きな変化に直面している。グローバリゼーション、IT革命、企業経営の改革、社会改造などなど。でもやはり冬になれば、人々は昔ながらのおなべを囲む。自信を持ってグローバリゼーション対応と自己改革に臨みたい。

(橋本尚幸)

1999年12月1日水曜日

「真空リーダー」は日本を変えるか

秋が深まり東京は一年でもとりわけ美しい季節となった。わけても当社の竹橋ビルから眺める皇居の樹海はすばらしい。都心のど真ん中の超一等地にありながら、この100ヘクタールを越える森林は、注意深く自然林の形態が維持され、野鳥や植物の楽園ともなっている。その周りを取り巻くのは、大手町、丸の内、霞ヶ関などで、日本のほとんどの政治・経済活動がそこに集積され、巨大なパワーセンターが形成されている。しかしその中心には、ぽっかりと穴があいていて、そこには自然があるばかりである。

この東京という都市の特殊な構造に最初に着目したのはフランスの構造主義者のロラン・バルトだ。もう30年も前になるが「いかにもこの都市には中心がある。でもその中心は空虚である」と喝破したのだ(『表徴の帝国』1970年)。以来、この言葉は日本文化と社会の特殊性を物語る言葉としておびただしく引用されてきた。

中心が「空」である組織の利点として、安定性がある。話し合いによるコンセンサスがベースにあるからである。欠点としては、逆にあまりにも安定的すぎて、変化し難いことがあげられる。変化を受け入れる風土は希薄で、強いリーダーシップは昔から胡散臭いものと考えられてきた。(ちなみに、日本史における「国民的英雄」は例外なしに悲劇的な最期を遂げる。ヤマトタケル、源義経、楠木正成など。リーダーは挫折してはじめて人々から愛されたのである。)

しかしそれでは日本は永久に変化できないかと言えばそうでもない。数百年に一度は、すごいリーダーが出現して、中心の真空部分に降り立ち、社会に革命的な変化をもたらすのだ。それが源頼朝であり、徳川家康であり、大久保利通であった。いずれも人々から決して愛されはしなかったが強力なリーダーシップを発揮し日本を確実に変化させた。

このような強力なリーダーはどの様な条件が満たされたときに日本に出現するのかだが、いずれの場合でも、人々が現状につくづく嫌気し、変化を求めるコンセンサスが背景にあったように思う。

日産自動車にルノーからゴーン氏がやって来て、ドラスティックな改革を進めている。不思議なことに社内ではそれほど大きな抵抗はないときく。ゴーン氏がやっている改革とは、日産の社員がだれもがやらねばならないと考えていた(しかし出来なかった)ことに過ぎないからということだ。リーダーシップを受容する条件が整っていたのだ。

日本全般についても同じことがいえる。いまや変化の必要性、その方向についてコンセンサスがしっかり形成されている。まさにリーダーシップを受容する条件は整っているのだ。いったんコンセンサスができると日本は動く。日本の変化は確実に始まっているように思う。

(橋本 尚幸)

1999年10月1日金曜日

企業の新規事業展開が日本を不況から脱出させる

若干の景気回復の兆しが見え始めてはいるものの、まだまだ日本経済は不況を脱してはいない。

不況とは国民経済の供給能力が需要を上回る状態を意味するので、不況から脱出する手段として、まず需要を大きくすること、それから供給力を削減することが考えられる。公共事業等の財政政策や、過剰設備の除却への支援措置などだ。しかしこういった政策は、まだまだ需給ギャップの解消に効果を表していないように見える。

この理由は、こうした従来型の政策が需要と供給能力を単に数量的に一致させようとするだけで、供給構造と需要構造の構造的、質的ミスマッチを解消するに至っていないことにある。この10年、需要構造には大きな変化が生じている。その変化を考慮した供給構造の改造が望まれているのだ。

今月なくなったソニーの創業者の盛田昭夫氏は、ウォークマンというまったく新しい商品を開発し、世界中に爆発的な需要を巻き起こした。いま現在もっとも待ち望まれているのは、こういった企画、新規事業に他ならない。

一般的にこのような新規商品とサービスはベンチャー企業によって提供されると考えられている。そこで、わが国においてベンチャー企業の育成ための具体的な仕組み作りが進んでいる。しかし、それにも拘わらず、わが国におけるベンチャー企業活動は、アメリカに比べて非常に見劣りする状態にとどまっている。全産業の開業率はついに廃業率を下回るまでに落ち込んだ。その背景には社会風土や文化の相違があるように思える。

19世紀のフランスの歴史家アレックス・トックビルは、不朽の名著といわれるその著書『アメリカの民主政治』のなかで「アメリカの強さは無数の零細企業にある」と喝破した。アメリカのベンチャー企業には、このように19世紀以来の長い伝統があるのだ。

それに対して、わが国ではむしろ、ベンチャー企業もさることながら大・中堅企業が絶え間なく自己革新と新規事業展開を行うことで、経済の供給構造を時代の変化に対応させてきた。その背後には組織体の維持(お家の存続)がもっとも大事とされた鎌倉時代からの御家人文化の伝統がある。トヨタ自動車の奥田会長が雇用の維持が出来ない経営者はまず自分の腹を切れと言い切って論議を呼んだが、この雇用確保の姿勢は組織体の維持への強い意志、それと裏腹の関係にあるトヨタならではの攻撃的なシェア拡大主義と合わせて初めて理解できるのだ。

当社では、七人の選抜メンバーからなる「戦略ビジネス発掘タスクフォース」が編成され、新規事業によるブレークスルーを目指して鋭意仕事を始めている。日本では、このような企業内の動きこそが企業を発展させ、さらには日本経済全体の活性化をもたらすと期待されるのである。

(橋本 尚幸)

1999年9月1日水曜日

高齢化する「団塊の世代」は日本を衰退させるか?

8月1日付のニューヨーク・タイムズは第一面に「21世紀の日本は、人口の減少と高齢化のため、国家としての活力と影響力を失って行くだろう」との内容の記事を載せた。まったく余計なお世話である。そんなことはないと思う。

日本の人口が減少に向かっているのは事実である。しかしこれ自体は決して悪いことではない。朝のラッシュ時の地下鉄に乗ってみるまでもなく、昔から日本では人が多すぎることが問題であった。『七人の侍』と『楢山節考』の映画を見てもわかる。だから人口減少は必ず生産性の上昇をもたらすので、人口減少に比例してGDPが減ることはありえない。

高齢化の進行にしても非生産人口の増加を必ずしも意味するものではない。健康医療、家事・介護ロボット、さらにアルツハイマー治療薬の開発がハイピッチで進んでいる。逆に子供の数が減るので教育、養育費の負担は軽くなる。「実質的な」生産人口比率は、いまとほとんど変わらない可能性が高いのである。

問題は、肉体的には元気でまだまだ働けるお年寄りにどう働いてもらうかである。定年延長が常識的な回答であろうが、中高年からは「まだ働かせるの、堪忍して欲しいな」との本音のつぶやきが聞こえることも事実である。先進諸国では高齢者の就業比率は急速に低下しつつあり従来型の定年延長はその流れに逆行するともいえる。別の高年者の有効活用法を考えねばならないのである。筆者の考えでは、ずばり、彼らには「本当の投資家」になってもらえばよいと思う。

日本の莫大な個人金融資産の大部分は60歳以上の高齢者に保有されている。彼らは非常に保守的であり、日本においては「リスクキャピタル」は遂に育たず、これが経済低迷の原因ともなった。

しかしいま高齢化しつつあるのは戦後生まれの「団塊の世代」である。いろいろ批判はされるが、ともかく戦後の民主教育のおかげで知識の平均レベルは高く好奇心も強い。1200兆円の個人金融資産も相続などを通じてやがては彼らのものとなる。その時こそ、日本に新しいタイプの投資家集団が出現する。麻雀、パチンコに明け暮れた世代だ、リスク・テイキングはお手のものだ。

現役を引退した「団塊の世代」は、日本の歴史上はじめて、生産者の利益ではなく消費者の利益を主張する政治的な層を形成することになる。前川レポート以来、指向されてきた日本経済の消費主導型経済への転換が、年老いた団塊世代の自己主張で一気に実現できるかも知れない。また国際金融市場でも彼らは「連合赤軍」的な投資行動で各国の金融当局者を戦々恐々とさせるかもしれない。

その数の多さ故に、戦後の日本社会を常に揺るがしてきた「団塊の世代」だが、われわれはまだまだ彼らから目を離すことができないように思う。

(橋本尚幸)

1999年8月1日日曜日

「総合」商社は時代遅れであるか?

戦後、日本企業は一貫して多角化を進め、総合化の道を進んできたが、最近は自分の得意分野に経営資源を重点的に投入する傾向が顕著になっている。今や「選択と集中」というのが時代のキーワードだ。では何でも扱う「総合」商社も、もはや時代遅れであるのか? そうではないと思う。商社にとっては、その「総合力」こそが強みの源泉なのである。

まず商業と製造業との質的な相違がある。製造メーカーが製品を「製造する」のに対して商社は製品を「取り扱う」。製造業では「選択と集中」が競争力の強化につながるのが普通だが、商社の取扱商品の「選択と集中」は必ずしもそうではない。大根の販売に集中しても八百屋の経営が良くならないのと同じだ。

次に、一般企業の「選択と集中」が進み、企業の守備範囲が狭まれば狭まるほど、総合的なサービスへのニーズが高まることである。企業が専門性を高める一方で直面する問題は複雑化してきている。それが故に「オルガナイザー」、「ソリューション・プロバイダー」という総合商社の役割が一層重要になってくるのだ。

そもそもそれは商人の役割でもある。商人とは、船乗りシンドバッドの昔から、万国の世情、各地の物産に関する豊富な知識の持ち主であり、人々により有利な取引機会を提案するビジネス創造者であった。そのベースには知識と情報があった。三井物産の創設者で価値の高い美術品コレクションを残した益田孝の骨董品の鑑定眼は有名だが、その美術品の「違いがわかる」能力とは、商社マンの力そのものでもあったのだ。商社のコア・コンピタンスとは、やはりひとりひとりの商社マンの見識の広さにある。それは客先ニーズへの対応力の広さであり、すなわち「総合力」に他ならないのだ。

しかし問題がないわけではない。商社の規模がどんどん大きくなるにつれ、組織が細分化され、商社マンの専門性は深まってはいるが、逆に総合性が弱くなっているように思えることだ。ある特定の商品の知識しか持たない専門家はメーカーのセールスマンはつとまっても「商人」とは呼べない。商社マンひとりひとりの知識を、組織的に集積し、体系化し、全員で利用可能なものとすること、すなわち「ナレッジ・マネージメント」が喫緊の課題となっているように思う。

19世紀のイギリスでは、国策に基づきプラントハンターと呼ばれた植物専門家が世界中に派遣され植物収集を行った。集めた膨大な標本、データは、王立キュー植物園で体系化され、それが大英帝国発展パワーの源泉となった。プラントハンターは日本の商社マンのようだが、日本の商社には残念ながら王立キュー植物園に相当する体系化されたノウハウ蓄積システムがない。夏休みのシーズンでもある。植物採集でもしながら商社内キュー植物園の構築に思いをはすのは如何。

(1999年8月2日 橋本尚幸)

1999年7月5日月曜日

サラリーマンは企業の「隠れ債務」であるか

トヨタ自動車の首脳が終身雇用制度を守るといったとして、格付け機関のムーディーズが、トヨタ自動車の格付けを最上級のAAAからAa1に一ランク格下げしたことは、まだ記憶に新しい。終身雇用制度を維持することは「簿外の債務(隠れ債務)」を発生させるからだという。はたしてわれわれサラリーマンは企業の「隠れ債務」なのか。

日本の終身雇用・年功序列賃金制度のもとでは、サラリーマンは中高年を過ぎると自分が提供する役務以上の報酬をもらうことになる。ムーディーズはこれを、給料の過大支払の約束、すなわち隠れた「債務」で見なしたものである。

それに対して、日本のサラリーマンは若い働き盛りの間、働きに応じた十分な報酬をもらっておらず、その「貸し」を中高年に入ってから取り返しているに過ぎないとの主張もある。これは、従業員は経営に対して「債権者」の資格で発言権を有する、というステークホルダー議論にもつながってくる。そうだとすると、中高年層をねらったリストラなぞは、サラリーマンへの過去の過小給料支払い分(会社としての「借り」)を踏み倒すことにほかならず、とんでもないことだということになる。

本当にそうなのか。結論を急ぐ前に、二つほど考えなければならないことがあるように思う。

一つは、この種の議論は一般に平均値での議論がなされるが、ひとりひとりの個別ケースとなると千差万別だということだ。自分は受け取っている給料より遙かに大きな役務を提供していると自負する人が大部分だと思うが、現実は必ずしもそうでもないケースがあることも、これまた事実なのである(モチロンアナタノコトデハナイ)。

もう一つは、企業と従業員の時間空間をまたがる貸し借り関係は、企業ばかりでなく、従業員をも拘束することから、企業活動と従業員の人生両方を停滞的なものとするということである。江戸時代の住友にも「末家制度」という制度があった。若いうちの給金を低くおさえるかわりに死ぬまで終身年金を払うというシステムであったが、世の中がゆっくりと動く江戸時代であるからこそ機能したもので、明治に入って変化の早い時代になると、この制度は捨てられることになる。

ということで、やはり、どの個人をとっても、またどの時点をとっても、常に「貸し借りなし」と認められる報酬システムが望ましいことになる。ついにトヨタ自動車も従来の年功賃金から能力主義への移行を発表することになった。

永井荷風は、「貸し」と「借り」が複雑に入り組んだ日本社会の仕組みがどうにも我慢がならず、貸しをつくらない、また借りもつくらないという「不施不受」の哲学を徹底して実践した人であった。これが近代個人主義の原点であると考えたからだ。平成の時代、荷風の生き方が非常に今日的であると見直されているが、われわれのお給料も「貸し借りなし」で決めたいものだ。

(1999年7月5日 橋本尚幸)

1999年6月7日月曜日

産業競争力と経済の二重構造

日本の産業競争力は、昨今いちじるしく低下したといわれている。スイスのローザンヌに本部を置く経営開発国際研究所(IMD)が毎年発表する「世界競争力報告」と題するリポートによれば、99年の日本の競争力は世界で16位とのことだ。もちろん1位は米国である。2位にシンガポールがくる。香港は7位、カナダですら10位と日本よりも前に付けている。「ランキングを改善するためにも、日本は国内経済の改革や、企業・金融部門のリストラを続けなければならない」という(ナンシー・レイン「日本、構造改革へ待ったなし」『日経新聞 経済教室』99年5月24日)。

同じ問題意識のもとに経団連は産業競争力会議に対して包括的な要望事項を提言している。過剰設備の廃棄、雇用対策、不動産流動化を3本柱とする幅広い官民一体の対策を講じて、衰えてきている日本産業の競争力を取り戻すことが喫緊の課題であるという。

でもちょっとわからないことがある。98年の日本の貿易収支は1000億ドルを優に超える大幅黒字だということだ。日本産業の国際競争力は惨めなほどに低下していると指摘されているにもかかわらず、輸出が続いている。競争力がなければそもそも輸出自体が成り立たないはず。これはどう理解すればよいのか。

ここでわれわれは古くて懐かしい「日本経済の二重構造問題」にたどり着くことになる。一部の限られた産業は抜群の競争力を有しているが、同時にすこぶる効率が悪く、コストの高い産業部門が、淘汰されないで牢固として存続しているということである。発展産業分野と衰退産業部門、製造業と非製造業、強い会社と弱い会社、大企業と中小企業、これらさまざまの二重構造は日本の経済ピクチャーに複雑な綾を織り込んでいる。購買力平価にも如実に日本経済の二重構造があらわれている。輸出物価で推計した購買力平価と消費者物価で推計した購買力平価では1ドルに対して優に5~60円の差が出るのだ。競争力がないのは決して「産業全体」ではなく「一部の産業部門」に過ぎない。

すでに60年代からこの二重構造の解消が叫ばれてきたが、現在に至るまで成果はなかった。70年代の石油危機では「みんな一緒に」頑張ったし、80年代の円高進行も「みんな一緒に」切り抜けた。そうこうするうちにバブルという神風に「みんな一緒に」救われた。いま未曾有の不況の中でまたしても「みんな一緒に」対策を考えている。

いまやらねばならないことは、比較劣位の部門を「再生」という名の下に救済し二重構造を温存することではなく、比較優位部門への生産要素の自然な移動を放任することではないのか。

ちなみに、この「みんな一緒に」という官民一体型の産業政策システムは、戦争遂行を目的として昭和の10年代につくられたものだ。それまではもっとシンプルで古典的な資本主義システムであった。

その古典的なシステムのもとで日本産業は大きく変化し発展した。それと比較すればいま必要とされている構造調整はさほど大きなものではない。明治・大正時代からの本来の「日本的」経済システムにもっと信頼を持ちたいものだ。

(1999年6月7日 橋本尚幸)

1999年5月10日月曜日

「会社の大きさ」は何で測るか?

企業経営において、事業の成長力とか経常利益とか「質」の部分の評価に加え、事業の大きさという「量」の部分の評価も、企業の社会的な役割・存在感といったものにつながってくるわけで、依然として大切なファクターである。でも、事業の大きさはどうやって測るのか。異なる業種に属する二つの企業はどうやって比較するのか。単純に売上高で比較してよいのか。従業員数か。異業種間での事業の売買、交換が日常化する現代、この問題はより大切になってきているようにみえる。

そこで注目したいのが企業の粗付加価値額である。粗付加価値とは当該企業のオペレーションにより付加された価値の合計であり、売上高から売上原価及び経費を差し引いたものと思えばよい。具体的には税引後経常利益、純支払金利、人件費、賃借料、減価償却費、租税公課の合計となる。企業が多くのステークホルダーズ(株主、融資元、従業員、地主・家主、公共社会など)に対して分配する価値の合計といえる。すべての経済活動の粗付加価値を合計したものがGDPであるので、企業の粗付加価値とは、その企業のGDPへの貢献度とも云えるのである。

日本の全企業、産業について粗付加価値をひとつひとつ計算するのはなかなか骨が折れる仕事だが、さいわいに通産省でつくった「わが国企業の経営分析」という資料がとても便利である。この資料から、二三の発見をご紹介することにしたい。

日本の資本金10億円以上の大企業1659社が捻出する粗付加価値合計額は平成9年度で70兆円、GDP504兆円の14%を占める。このうち製造業は1060社で36兆円、非製造業が599社で34兆円の粗付加価値を産出する。一社あたりでは非製造業の方がはるかに大きく、日本のサービス産業の巨大化は予想以上に進んでいることがわかる。

具体的にみると、スーパーマーケット業29社の粗付加価値は合計で1兆9000億円となり、巨大装置産業である高炉製鉄業8社の粗付加価値1兆8000億円をしのぐ。道路運送業18社の粗付加価値は1兆8000億円で、医薬品製造業40社の合計と同じくらいだ。また電気通信サービス業はたったの2社で4兆2000億円の粗付加価値を産出し日本経済の牽引役である自動車関連製造業25社の粗付加価値4兆4000億円に肩を並べる。

ところで「21世紀型サービス産業」である総合商社はどうか。総合商社9社は年間約1兆円の粗付加価値を生み出している。規模として高炉製鉄業8社の半分強である。非鉄金属製造業33社、水運業18社、航空運輸業5社とほぼ同じくらい。出版・印刷業11社の1.5倍、工作機械30社の3倍である。

総合商社の売上高がきわめて大きい一方で利益の絶対額が小さい。そのため過去において、ある時は総合商社は実力以上に巨大な存在と見られ自信過剰になったり、ある時はその反動で必要以上に過小評価され自信喪失に陥ったように思う。でも粗付加価値でみれば、実態はそれほど巨大でもないし、またそれほど捨てたものでもない。身の丈に応じた社会貢献(粗付加価値の創出)を続けたいものだ。

(1999年5月10日 橋本尚幸)

1999年4月5日月曜日

21世紀、誰が日本の寝たきり老人を養うのか

アメリカ景気の強さといったら、それはもうたいへんなもので、まったくうらやましい。一方で、わが国経済ときたら、ご存知の低迷ぶりで、見ていて歯がゆいばかりである。

そんな中で、アメリカの一流エコノミストが「日本の景気回復は当分期待できない。だから日本からアメリカへの資本移動は続かざるをえない。したがってアメリカの景気は当分大丈夫なのである」などというのを聞くと、日本はアメリカの「貢ぐ君」ではないよと、ひがみたくもなる。

日本の不況が長期化し、社会の構造改革も遅々として進まないようにみえる中で、人口の高齢化だけは着実に進行している。これではアメリカとの格差は開くいっぽうだ。このままで行くとわが国の将来はどんなものとなるのか、誰が高齢者の面倒を見るのか、考えるのも恐ろしいほどだが、ここは職務柄、パソコンを使って将来を数字で見てみることにした。

試算の前提であるが、日本の構造改革が進まないので日本経済の過小消費体質は、牢固として「改善されずに」維持される、すなわちゼロ成長と経常収支の黒字が続くと仮定する。また日本の経常黒字はすべて海外で再投資されるとする(その結果、経常収支黒字の為替相場、金利水準への影響はニュートラルとなる)。人口推計は厚生省の数字を使い、要介護老人の老人人口に占める比率は現在の比率(8.3%)が改善されないと仮定した。

計算の結果は、次のような意外なものとなった。まったく心配することはなかったのである。すなわち:

1)日本の人口がピークアウトする2005年での日本の対外純資産は、2兆2200億ドルにまで増大する(GDPの54%)。

2)この対外純資産からの受取利息はGDPの2.7%となる。

3)これで日本の防衛費(GDPの1%)を楽々と全額カバーできる。

4)さらに防衛費を払った残りで、日本の要看護老人(その時点で207万人)の介護費用として、一人あたり年間353万円を支給することができる。

日米経済は、こと貯蓄・投資バランスについていえば鏡のような対照性があるので、アメリカでは全く逆のことが起こる。だから21世紀において日本の防衛費と要介護老人の介護費用を払うのは、アメリカの納税者ということになる。まるでイソップの「ありとキリギリス」の童話だ。

不況が続いて、お隣の芝生が青く見えることもあるが、日本人はそれほどひがんだり卑屈になることはないと思う。同時にアメリカ経済の強さを必要以上に過大に評価することも間違っているように思う。

おごることなく、卑屈になることなく、常に等身大で自分と相手を見ることが大切なのである。そうすれば「百戦危うべからず」と孫子もいっている。


(1999年4月5日 橋本尚幸)